望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

水で割ったブドウ酒

 近代化を目指した日本で近代化の進捗具合を見る尺度は西欧だった。西欧の政治や経済、軍事、法体系などの制度が日本の手本になり、さらには文化や生活習慣なども西欧を手本にする意識も生じた。だが、文化や生活習慣などは西欧に匹敵する水準が既に江戸時代には構築されていたので、日本と西欧の文化や生活習慣などは相対主義で見るべきだとするのが加藤周一氏。

 日本は「内部に文化的同一性があり、文化の各領域への分化が非常に進んでいた一方で、そういう文化が国民の全体に広がっていた。ですから外からのショックが自己同一性の危機を引き起こすということにはならない。緩和されてしまう。あれだけ強い文化を中国から長い間入れ続けても、明治以降に西洋をモデルに広範に改革をやっても、まだ自己同一性の危機は起こっていない」(「日本文化の特殊と普遍」=渡辺守章氏との対談、1980年。『加藤周一対話集①』所収)と加藤氏は、日本人の自己同一性の強固さを指摘する。

 西欧から日本を見るときに陥りやすい視線の偏りを分析して加藤氏は、明治以前に日本の文化が独自に高度な発展をしていたことを論じた。加藤周一氏の発言を以下引用する(同。一部修正あり)。
 
「日本と中国は非常に早くから、文化が世俗化された。そして、それ自体として高度に発達したということでしょう。
 世俗化の過程はかなり複雑です。それは、仏教のように高度に発達した宗教がアニミズム的な宗教としての神道的な世界を圧倒しえなかったということと関連している。キリスト教がゲルマン的な世界に入ってきたときと同じように、もし仏教が神道を圧倒していたら、おそらく文化の世俗化はなかなか起こりにくかっただろうと思います。神道的世界と仏教的体系がつり合いながら高度の文化が世俗化された形で発達したというのが日本の特徴です。

 ところがヨーロッパでは根本的な世俗化はようやく近代に起こったわけだから、いまなお文化の面では基本的に宗教的、キリスト教的だ。だから、ほかの文化をみるときにも、聖なるものと俗なるものとか、宗教的文化と世俗化された文化といった座標軸でみようとする。

 日本文化に対してもそうで、その結果、あるときは能を極度に宗教的なものとしてみたり、それに対する反動で世俗性を強調するということになる。しかし実際は水で割ったブドウ酒みたいなものなんだね。フランス人の考え方はブドウ酒か水かとなる。だから、能は水だ(完全に宗教性がない)、ブドウ酒だ(徹底的な宗教劇だ)と、どっちかになってしまう。
 しかし、日本人の歴史的・国民的体験は「水割り」なんだよね。薄くなるけど少しはアルコールもある。水でもないけどブドウ酒でもないというものなんです。極端にいえば天皇制から能までみんな同じなんですよ」

 「日本は立派だ」という日本礼賛の記事や番組があるが、その根拠は西欧などに日本文化が受容されたことだったりし、西欧を尺度にする発想が抜けきれていない。そうした日本礼賛とは異なる視点で加藤氏は、日本文化などが独自に高度な発展を遂げていたことを主張した。欧米での暮らしが長かった加藤氏だから説得力がある主張になっている。