望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

かつての京島

 東京都の東部に位置する京島は首都直下地震が起きると、建物倒壊危険度、火災危険度、総合危険度が高いと判定されている。関東大震災東京大空襲による焼失を免れた京島では、木造家屋が狭い路地を挟んで軒を連ねており、首都直下地震の強烈な揺れや出火にどこまで対応できるのかと危ぶまれている。

 地震や火災に備えて強固な新築住宅への建て替えの動きがある一方、住宅密集地であるので建て替えに制約があったりし、防災に配慮した街並みへと京島が転換するには時間を要しそうだ。消防車や救急車などの緊急車両の侵入が困難な狭い路地も多く、路地を6m以上に拡幅することが急務だが、古い家屋の建て替えが伴うため一気にとはいかない。

 15年ほど前に京島を訪れたことがある。当時のメモによると京島は、商店街には間口2間の商店が連なり、惣菜屋が多く、店頭のガラスケースに揚げ物類が入ったトレーが並び、商店街を行き交う人の半分以上は老婦人だった(歩いたのは午後の時間帯)。商店街から脇道に入ると木造2階建ての住宅が軒を連ね、新しいものもあるが大半は築数十年といった様子。

 狭い路地の頭上には両側の2階の窓からバルコニーが出張っていて、家の間隔が近いところもあった。路地は曲がりくねっており、初めての人は地図を見て歩いても迷いそうだった。火事があっても消防車が入ることはできない路地も多かった。肩よせ合うように歩く老夫婦の様子からは、地震に脆弱と判定されても、この人たちはここを離れないだろうなと伝わってきた。

 平家の木造の家もあちこちに残っていた。中には傾いていることが分かる家もあったが、表札が出ていて、話し声やテレビの音声が聞こえ、玄関横や路地に面して鉢植えが並べられていたりもし、生活が営まれていることが窺えた。傾いた家屋は地震の強い揺れに耐えられるのかと心配になった。

 平家にも2階建て住宅にもトタンで外壁を覆っている家があって、外壁が板張りなので防火のためトタンで覆ったのかと推察したが、首都直下地震の後に方々で出火したならば急速に温度上昇が起きるだろうから、トタンによる防火効果は限られそうだ。トタンを張るぐらいしか現実的な対策がないということか。余計なことながら、夏場はさぞ暑いだろうと想像した。

 人情とか助け合いの精神が残っているなどと聞いたこともあるが、一介の訪問者には確かめる術もない。ただ、商店街のあちこちで老婦人たちが声を掛け合っていたり、路地では立ち話を続けている様子もよく見かけた。一休みしようと喫茶店を探したが、見当たらず、毎日のように路上で会って話したり、互いの家を行き来したりしているだろう人々相手に喫茶店商売は難しいかと想像した。

雪国の音

 雪が降っている情景の表現に「しんしんと雪が降る」がある。雪が降っているといっても、風が強い中で雪が降り続き、前方が見えにくくなるような吹雪ではなく、ちらちらと雪が舞っているのでもなく、無風か微風の中で雪が静かに降り続けている情景が「しんしんと雪が降る」だ。

 しんしんは「ひっそりと静まり返っている様子」「奥深く静寂な様子」などを示すので、都会で雪が降って鉄道が止まり、道路では渋滞が広がり、通勤客などが駅に密集しているなどの交通が混乱している状況にはふさわしくない。高層ビルやマンションが林立し、人通りが多い中で穏やかに雪が降っていたとしても、しんしんと雪が降るとの情緒とは違う。

 雨が降っている情景ならば、しとしと、しょぼしょぼ、ぽつぽつ、ぱらぱら、じとじと、ざあざあなど雨の勢いを形容する言葉がいろいろあり、細かい雨とか糸のような雨、蛇口をひねったような雨などの表現もある。また、春雨、秋雨、夕立、通り雨、霧雨、時雨、小糠雨、雷雨、五月雨、氷雨、長雨、豪雨、緑雨など雨の様子を表す言葉は多彩だ。

 雪にも淡雪、粉雪、細雪、風花、ざらめ雪、湿り雪、べた雪、牡丹雪、綿雪、新雪、どか雪、名残雪、万年雪など雪の状態を表す言葉が多くある。雪が降っている情景を形容する言葉は、しんしんの他に、こんこん、ちらほら、はらはら、ふわふわ、どさどさなどがあるが、どれも大きな音だとは感じさせない。

 しんしんは、音もなく雪が降っている静かな情景にふさわしい言葉だが、雪に消音効果があることは解明されている。音は空気の振動で伝わるが、雪には隙間が多く、そこで空気の振動が複雑な反射を繰り返すので減衰していき、音が小さくなると専門家は解説する。積もった雪にも同様の効果があるという。

 歌舞伎では雪の情景になると舞台に白い布が敷かれ、上から小さな白い紙がはらはらと降ってきたりもするが、印象に残るのは、大太鼓をゆっくりと叩く音で演出することだ。音もなく静かな情景を大太鼓のゆっくりと響き渡る音で表現するのは独特だが、静かさを感じさせる。音がないことを音で表現するのは簡単ではないが、それを歌舞伎では工夫した。

 雪国で暮らす友人は、雪には音があるという。積もった新雪を踏み締めて歩く時のギュッギュッという音や、湿った雪を踏み締めて歩く時のグッグッという音を友人は雪の音だとし、雪国の冬を代表する音だとする。降っている雪には音を感じないが、積もった雪を踏み締めて歩くと、雪の中に閉じ込められていた音が飛び出してくるのだと友人は主張する。

エネルギーと物質

 アインシュタイン特殊相対性理論から導かれた「E=mc²」は、エネルギーと質量の等価式で、相互に変換可能であることを示す。物質からエネルギーを取り出すことは地球上でも原発核兵器で実際に行われている。太陽のような恒星は核融合反応により膨大な熱と光を放出しているが、これも物質の一部がエネルギーになったものだ。

 エネルギーから物質を取り出すことを行うのが加速器だ。電子や陽子などの粒子を光速に近く加速して高いエネルギー状態にさせて衝突させると、その衝突エネルギーから粒子が生成されるという実験が日本を含め各国で行われている。物質に光(紫外線)が当たると光のエネルギーが電子に与えられ、電子が飛び出てくる光電効果は光センサなどに応用されている。

 物質とエネルギーが相互に変換可能だということは、物質とエネルギーは状態が異なるだけで基本的には同じ何かだということになる。「H₂O」は温度によって固体・液体・気体と状態を変え、氷と水と水蒸気は全く別もののような外観・性質になるが、同じH₂Oからできているとのイメージが分かりやすいかもしれない。ただし、物質とエネルギーの変換が可能になるには、とてつもない温度と圧力が必要だ。

 現在の宇宙のエネルギー比率は、恒星や銀河など存在が確かな物質が4.9%、暗黒物質ダークマター)が26.8%、暗黒エネルギー(ダークエナジー)が68.3%と考えられている。星や銀河など宇宙を構成すると考えられてきた観測可能な物質が約5%しかなく、95%という宇宙の大部分が未知の物質とエネルギーで満たされていることになる。エネルギー比率で表すのは、物質とエネルギーが等価であるから可能になる。

 人類が観測できない未知の物質やエネルギーが宇宙には大量に存在すると、なぜ判断するのか。宇宙に関して世界で大量の観測データが蓄積され続けるとともに、観測機器の高度化や各種の電波を使った観測も行われるなど精密な観測が可能になって、以前は人類が気がつかなかった様々な現象が観測され、宇宙の詳しい姿が徐々に明らかになりつつある。

 暗黒物質は、多くの銀河の回転を詳細に観測して得られた大量のデータから、銀河外縁付近の星々はケプラー回転(中心に引かれる重力と、遠心力が釣り合っている時の回転運動)により推測される速度より速く回転していることが判明し、見えない物質=暗黒物質が存在して銀河の運動に影響を与えていると理解された。
 
 暗黒エネルギーとは、50億年ほど前から宇宙の膨張速度が加速していることが明らかになり、膨張が加速しているのは、星や銀河が引き合う重力よりも大きな逆向きの力が働いていることであり、そうした力を作用させる何らかのエネルギーがあると理解された。暗黒エネルギーの正体は全くわかっていないという。

 物質とエネルギーの変換は、宇宙では珍しくない現象なのだろう。それは人類や地球を含め宇宙の全てが、物質にもなり、エネルギーにもなる何かで構成されていることを示す(『ミクロの窓から宇宙を探る』=藤田貢崇著を参照しました)。

季節外れの暖かさ

 真夏に40度近い気温の日が続くと、「暑すぎる」「異常気象だ」「温暖化のせいだ」などの声が多くマスメディアで伝えられる。もう勘弁してくれとの気分を滲ませながら、猛暑や酷暑に対する恨みをぶつける。だが気象相手では何を言っても無駄だ。そこで温暖化論を持ち出して、猛暑や酷暑を理解しつつ、恨みがましい言葉を半ば諦め気分を漂わせながら言う。

 一方、真冬に気温の高い日が続いても、季節外れの暖かさを楽しんでいる人々の様子は報じられるが、「異常気象だ」「温暖化のせいだ」などの声が報じられることは少ない。気温が高いといっても真冬なので、外出時にはジャケットなどを脱いで対応できる。平年の平均気温より10度以上も高くなっても、冬にも季節外れの暖かい日もあるさと済まされる。

 真夏の気温上昇はシャツ1枚になっても体にこたえるので我慢できないが、真冬の気温上昇なら1枚、2枚脱げば対応できるので、異常気象だと深刻ぶる必要はないか。耐えられない気温上昇は夏場であり、耐えることができる気温上昇は冬場であるとすると、異常気象や温暖化の影響を実感させ、環境問題に意識が向くのが夏場の気温上昇となる。

 人は寒さには着るものを増やすことで対応できるが、裸になっても耐え難い暑さには抵抗できない。徒然草に「家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬は、いかなる所にも住まる。暑きころ、わろき住居は堪へ難きことなり」とあるように人々は暑さ対策に悩んできた。クーラーが普及して真夏にも快適な暮らし方ができるようになったが、クーラーの排熱が気温をさらに上昇させる。

 気温上昇と環境意識の高まりが比例するとすれば、季節を問わず気温上昇に敏感になるはずだが、真冬の季節外れの暑い日には「今日は暑いね。冬じゃないみたい」などと言って済まされる。温暖化が実感されるのが真夏の猛暑や酷暑だとすれば、体感で温暖化を納得しているのだろう。加えて、集中豪雨や諸外国で発生する山火事などのニュースも夏秋に増えるので温暖化論を意識させる。

 真夏の猛暑や酷暑が温暖化によるものか、たまにある現象なのかははっきりしない。だが真夏の猛暑や酷暑は現実なので、それを納得する理由を欲しがる人々は気候変動による温暖化という説明を受け入れ、「異常気象だ」と半ば諦め気分を漂わせながら納得する。それは現実を受け入れているだけだ。

 日本各地で桜の開花が早まっていることも冬場の気温上昇と関係あるだろうが、桜の開花が早まることを「異常だ」「温暖化のせいだ」と嘆く声は少なく、春の到来が早いことを歓迎する声が圧倒的だ。真冬の季節外れの暖かさも桜の開花が早まるのも危機とは意識されず、夏の猛暑や酷暑などの体感で人々は温暖化を実感する。

ニュースバリュー

 ニュースバリューとは「ニュースとして報道する価値」のことで、価値は出来事の重要性に基づいて判断され、優先順位がつけられる。ただし、新聞社もテレビ局も大衆相手の商売なので、大衆が求め、欲していたり、興味を持つだろうニュースの価値は上位になる。つまり、大衆にウケるニュースを大きく報じることが時には行われる。

 大衆が知りたいと欲するニュースとは需要があるニュースであり、新聞社やテレビ局がそうした需要に応えることは不思議ではない。社会を動かし、変化をもたらす政治や経済や社会に潜む不合理の暴露などのニュースよりも芸能やスポーツなどのニュースが優先的に扱われたりするのは商業メディアの宿命だ。

 需要に応えて供給するのは正当な経済活動だが、報道には社会的な使命があるとされ、大衆にウケそうなニュースに偏って配信する媒体は軽んじて見られる。だが、社会的な使命感を前面に掲げ、硬派なニュースが大半では視聴率は上がらず、発行部数も頭打ちになりかねない。ニュースバリューの優先順位が送り手側と受け手側で異なることは常であり、大衆におもねりすぎずに送り手側の価値観を主張するニュース編成が必要となる。

 ニュースバリューは、時により場所により人により常に変化する。災害の被災地で生きる人々にとってはライフラインの復旧などの情報が求められ、芸能やスポーツなどのニュースの優先順位は低い。ウクライナやガザの人々にとって大谷選手の大リーグでの活躍は何の価値もないニュースであろうし、野球に興味がない欧州などの人々にとっても大谷選手の活躍のニュースは報じる価値のないニュースであろう。

 大リーグのオープン戦で大谷選手がホームランを打ったことが日本のテレビ各局でトップニュースになった。オープン戦での打撃成績には重要な意味はなく、客観的に見ればスポーツニュースのコーナーで短く伝えるのがせいぜいのニュースバリューしかないが、日本のテレビ各局はトップニュースで伝えた。

 これは聴取者=大衆におもねった判断であったが、大谷選手の人気や好感度が非常に高いと判断したニュース編成だ。オープン戦のニュースの重要度は長続きせず、公式戦が始まったなら見向きもされないニュースになるだろう。これは、マスメディアの大衆迎合の姿勢をよく反映した事例で、チャンネルを合わせてもらい、視聴率を稼ぐことがニュースバリューを決めた例だ。

 大衆が求め、続報を欲するニュースは、最初は新聞社やテレビ局から提供されたものだ。大衆が興味を持つことでニュースの需要が喚起され、マスメディアは続報を提供し続けることで存在感を示す。ただし、大衆迎合に傾きすぎると、そうしたマスメディアを大衆は軽視するようにもなる。大衆にウケれば良いとするマスメディアのニュースバリュー判断の軽薄さを、大谷選手の活躍と笑顔が隠し続けることができるか誰も知らない。

成長しすぎた自動車

 新型のクラウンのセダンは全長5030mmで全幅1890mm、車重2000kgと巨体になったが、1955年に発売された初代のクラウンは全長4285mm、全幅1680mm、車重1210kgだった。現行のカローラ・セダンは全長4495mm、全幅1745mm、車重1230〜1430kgなので初代クラウンはかなり小型だった。

 モデルチェンジが行われるたびに少しずつ「成長」するのは日本車だけではない。例えば、ベンツが小型車に参入したと騒がれたCクラスの現行型は全長4751mm、全幅1820mmだが、初代(190。1985年)は全長4420mm、全幅1680mmだった。BMWの各車種もモデルチェンジのたびに巨体化し、中型の5シリーズは初代(1972年)は全長4620mm、全幅1690mmだったが、現行5は全長5060mm、全幅1900mmと巨体化した。

 各国で自動車の保有台数が増え続け、各国メーカーの各車種はモデルチェンジのたびに車体が大きくなっているので、車道における自動車の密度は高くなる。各国で、絶え間なく車道を拡幅するとともに新しい車道を建設し続けているなら、巨体化して増殖する自動車に対応した道路環境となるだろう。だが、既存の住宅が密な都市における道路の拡幅や新設は簡単ではない。

 自動車は、安全基準に対応して車体は堅固になるとともに重くなり、装備を充実させると重くなり、車体が大きくなると重くなり、EVやPHV、HVなど積む電池が多くなると重くなる。自動車の重量を受け止めるのは道路だが、重量級の車両が増えると痛みつけられる度合いも増える。

 仏パリ市の住民投票で、重量の重いクルマに対して市内の駐車料金を3倍にすることが承認された。対象になるのは、重量が1600kgを超えるガソリン車、ディーゼル車、ハイブリッド車と、2000kgを超えるEVだ。居住者やタクシーなど業務目的の場合は適用されない。市長は「健康にも地球にも良い措置を支持する市民の明確な選択」だと歓迎したという。

 これはSUVを標的にした動きだと報じられた。販売台数が増えて路上に多くなったSUVは、大きく車重が重く、「公害や安全性などの面で多くの問題を引き起こしている」とパリ市。住民投票による賛同を得て駐車料金を大幅に引き上げることで、市内に入るSUVの台数を減らすことが狙いだという。

 大きく重量の重いクルマに対する規制は英ロンドン市も検討していると伝えられ、大型のSUVは各国でも増えているので、「成長」して大きく重くなる自動車に対する規制は今後増えるかもしれない。一方で小型でエコな2人乗り程度の自動車の普及は進まない。大きく重いSUVが売れるのは、人々が環境意識よりも別の何かを重視していることを示している。

科学的な思考

 科学者は、あらゆる事柄に対して常に科学的な思考を行っているわけではないということを加藤周一氏は分かりやすく説明している。加藤氏の発言を収録した『居酒屋の加藤周一』から引用する。

「『科学者はだまされない』というのは一種の迷信です。ある意味では、科学者の方が騙しやすいのです。何しろ、少ない情報から本質を推定したり、事実の断片を繋ぎ合わせて全時系列を頭に描いたりするのが得意ですから、逆に言うと思い込みに陥りやすいのです」

 思い込みに陥りやすい科学者が自尊心の高い人だったなら、科学者ではない人々の言うことを軽んじたり、無視したりするだろう。そこに、社会に対して説明責任を果たさない科学者が、一方的な発言に終始したりする遠因がありそうだ。

「科学技術が発達すればするほど専門化が徹底します。専門領域については科学的思考をするわけですが、極度に専門化した自分の領域を外れたら、自分の専門領域での、ものの考え方を他の領域に及ぼさないんです。
 専門化ということは、隣の領域は隣の領域で複雑で、それをやっている人以外にはなかなか分からないということを意味しますから、分かるのが容易でないということも絡んできて、自分の専門領域での思考の形式が、他のことを考えるときに作動しないんです。
 その意味では、科学技術者もそんなに摩訶不思議なものではなくて、自分の専門領域以外では全然、科学者でない人と同じ、ほとんど大抵の場合がそうです。
 つまり科学者であって自分の科学的な考えをいろんな面で応用するという人が少なくなってきている。科学技術が発達すればするほど、むしろ非科学的なものが栄える一つの理由です」

「人間は思ったより騙されやすいのです。ほどほどに理性的な心の働きが備わってくると、対象物の属性のごく一部の情報から勝手にその物の本性を推定するとか、目の前で時系列的に起こった一連の事実の断片を自分が理解しやすいように勝手に繋ぎあわせて解釈するといった『思い込み』が出てくるために、手品師の付け入る余地が出てきます。
 人間にほどほど理性的な心の働きがあるゆえに実は騙されるというと、やや逆説的に聞こえるかもしれません。理性は騙されないための心の砦だと思っていたら、どうも逆の面もある」

 科学者も自分の専門領域のほかの事柄に対しては、様々な思い込みを持ち、そうした思い込みに思考は影響されているだろう。問題は、科学者が専門外の領域について発言するときに、それは科学的に正確なのか、1人の人間の感想なのかが曖昧になることだろう。その曖昧さは科学者の発言を聞く側に、科学者の言うことは全て客観的で理性的だとの誤解をもたらす。