望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

科学と予言

 科学的とは何だろうか。

 
天文学者は、皆既日食の始まる時間をはるか以前から秒単位で予想し、皆既日食になる地域を軌道計算であらかじめ算定して的中させた。日本では皆既日食より頻繁に発生する地震では、予知は実現していない。噴火は、前兆としての地下活動が盛んになってから、「噴火する可能性が高い」という形で警告されるが、予知とはいえまい。



 科学的とは、主観に依るところがなく、客観的データなり事実に基づくことが必要だろう。「○月○日に地震が起きる」「○年○月に噴火する」の類いの予言はあったりするが、予言と予知は異なる。さて、CO2の排出増が続くと21世紀末には気温が○度上昇するというのは、予知なんだろうか、予言なんだろうか。

 

 加藤周一氏の近刊「語りおくこと いくつか」の中に、次の言葉があった(改行は引用者による)。



 キリストはピラトと会った時、宗教的指導者であり、神の子でもあるということだけど、宗教的世界、精神的世界に住んでいて「真理」という言葉を使って、「真理を証するために来たんだ」と真理について語っているわけです。


 ピラトはいきなり真理について語らない。「真理とは何か」。何だかわからないものについて語ることはできないから、真理については語らない。「あなたは真理とは何だと思っているのか」という意味の反論をするわけです。


 これを現代語に訳せば、「宗教的精神と科学的精神との対決」だと思います。


 科学者は「真理」という言葉を使わない。「仮説」という言葉を使う。科学的仮説はテストできる。実証的に現実を観察して、仮説に矛盾があるかどうか、誤りであるかということを観察によって証拠だてることが可能なような命題、文書からなっている。


 科学者の立場は仮定をつくる。事実と矛盾しないような仮定をつくることが役目で、何か言った時、「これが真理だ」とは言わない。真理はテストしようがないんだから、真理ははじめからテストしなくても正しいわけです。


 そういうふうに宗教的な考え方と、科学的な考えの一番大きな違いの一つは、すべてではありませんけど、一つの重大な違いは「真理概念」です。宗教は真理について語る。科学は真理について語らないで、仮定について語る。いつでも訂正の用意があるということですね。

(引用終わり)

 「CO2の排出増が続くと温暖化が進む」というのは、科学的という立場からは、仮説の一つということになるのだろうが、世間では「真理」として扱われているようだ。