望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

パワースポット

 パワースポットとされる場所が増殖している。この言葉の定義は曖昧で、ある場所を誰かがパワースポットだと主張し、それが広まれば新たなパワースポットの誕生となるらしい。とはいえ、どこでも誰でもパワースポットを誕生させられるものでもなく、何らかのストーリーが必要で、それが他の人々に受容されることが欠かせない。

 パワースポットとされる場所は神社が多いようだが、敬われる山や森や滝や奇岩など八百万の神が宿るとされるような場所もパワースポットとされる。古代からの自然信仰が現代人にも受け継がれているとも見えるが、本気でそれらの神を敬ったり畏れたりする現代人がどれほどいるのか不明だ。その場所に行ってパワーを浴びた気になって満足するだけの人々も多いように見える。

 パワーの定義も曖昧だ。大地のエネルギーとか超自然的なエネルギーなどと説明されたり、何かの霊力とされたりする。それらが満ちている場所がパワースポットで、訪れた人が何かを感じる(あるいは、何かを感じた気になる)ということなので、パワーもスポットも全ては曖昧なまま増殖している。

 歴史のある神社ならパワースポットなどと称さなくても良さそうなものだが、パワースポットとされることに異議を唱えている様子はない。パワースポットだと浮かれた訪問者であっても、訪れてくれれば御神籤など何かを買うだろうから歓迎しているのかな。パワースポットなどと現代風の装いに抵抗がないとすれば、本来の信仰が形骸化して、神社といえども商売大事になったか。

 おそらくパワースポットを訪れる人々の大半は本気で信じてはいないだろう。パワースポットだからと出かける口実にしたり、神聖とされる場所でパワーや癒しや御利益などを得た気分になったりとパワースポット体験を楽しむことが目的だ。観光気分で、おまけに何かのパワーを注入されたような気になることもできるのだから、手頃な気分転換には向いていそうだ。

 見ただけでパワーを注入された気分になることができる代表は太陽で、太陽信仰は世界各地に古くからあり、現代でも初日の出などを喜ぶ人は多い。ただ、太陽はどこからでも見ることができ、特定の場所と紐づけることは困難だ。いわば地表の大半が太陽のパワースポットだから、特定の場所を太陽のパワースポットとして来訪者を呼ぶことは簡単ではない。

 世界の宗教にはそれぞれ聖地とされる場所があり、信者が巡礼に訪れたりする。それらの聖地とパワースポットを同列に扱うことはできないだろうが、現代のパワースポットを喜ぶ人々にとっては同じようなものかもしれない。神も仏も霊力もパワーも、存在すると信じたり感じる人にとっては存在するのだろうから。