望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

人の心の中にある

 歌人としても知られる鎌倉三代将軍の源実朝には『金槐和歌集』がある。「おほ海の磯もとどろによする波われてくだけてさけて散るかも」(大海の磯もとどろに寄する波 割れて砕けて裂けて散るかも)などが人口に膾炙しているが、「神といひ仏といふも世中の人のこゝろのほかのものかは」(神といい仏というも世の中の 人の心の他のものかは)もある。

 神や仏に対する信仰には長い歴史があるが、神や仏の存在が客観的に実証されたことはなく、神や仏が実際に姿を現したこともない。神や仏は信じる人の心の中にだけ存在しているのだろうが、いくら強く確信したとしても神や仏の存在は、その人の心の中の出来事でしかなく、現世の人々を神や仏が救いに来ることも助けに来ることもない。それを詠んだのが源実朝だ。

 鎌倉時代は日本で仏教が独自の歩みを行った時代で、浄土宗、浄土真宗時宗日蓮宗臨済宗曹洞宗が広まった。仏教がいわば日本化して土着した時代で、その死生観などは大きな影響を与えた。そうした時代に、神や仏の存在を冷ややかに見ていた源実朝。刀をとっての剥き出しの暴力で権力を争う時代だったから、ある種の諦観めいたものを持っていたのかもしれない。

 神も仏も人の心の他にはない=神も仏も人の心の中にだけ存在するものでしかないーという認識は、脳内における思考プロセスの解明が進んだ現代においては目新しい認識ではなく、宗教の規範に強く縛られなくなって宗教離れが進む諸国においても珍しい認識ではないだろう。だが、神や仏の存在を信じる人々は世界になお多く、宗教が絡む対立も絶えることがない。

 神や仏は人間に超越する存在とされ、その存在を人間は信じるしかないとの考えもある。物理学や脳科学は現世を対象にしたものであり、死後の世界にも介入できるとされる神や仏が科学をも超越した存在だとすると、その存在は現世に生きる人間には窺い知れないものとなる。これは、信じる人には神や仏は存在し、信じない人には神や仏は存在しないという珍しくもない論になる。

 教祖を崇める新興宗教がある。神や仏に匹敵する特別な存在であるかのように教祖が振る舞い、その教えに帰依した信者は、例えば、懸命に献金したり、布教に励んだりする。しかし、そうした教祖も寿命には抗えず、何の奇跡も起こすことができず、現世を去る(=普通の人間であることを示す)。中には教祖が金に執着するなど俗人性を発揮したりもするのだが、教団が揺らぐことなく親族に「相続」されたりする。

 新興宗教の教祖や教団に金を貢ぐ信者の人々に見えている世界は、信仰を持たない人には想像もつかない因果などの物語に絡め取られて身動きがままならないものかもしれない。新興宗教の教義も「人の心の他のものではない」だろうが、鎌倉時代源実朝が達した心境に現代の人々でも到達することが簡単ではないことを、あの和歌は示している。