望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

神と存在

 八百万とは「いちいち数えることができないほど数が多い」ことで、八百万の神とは「神道における神観念で、きわめて多くの神々」とされる。多くの神がいるされるが、全ての神が「見えない」存在とされ、神々がどんな姿形なのか不明だ。見えないのに神がいるとされるのは、おそらく様々な場面で神を感じたと古代から人々が信じ、それが受け継がれてきたからだろう。

 うっそうとした森林の中などで何かの気配を感じたり、巨岩や険しい山などを見て畏敬の念を抱いたり、荒々しい天候などに恐怖を感じたり、作物の実りに感謝の念を持ったり等、そうした感情が神の存在を信じることに結びつき、そうした感情を人々が共有することで神の存在が確かなものとされ、次には神が存在するからそうした感情が起きるとされるように変化したのだろう。

 見えない存在を信じるといえば、妖怪も同様だ。こちらは古くから様々な絵に書かれたりし、水木しげる氏の作品などでキャラクター化されて、すっかり一般化した。だが、それらの絵は想像力の産物であり、実在は確かめられていない。妖怪を見たという人がいたから、絵に書かれたのだろうが、書かれた絵で妖怪の実在を立証することは無理だ。何か得体の知れないものがいると感じ、それを妖怪だとしたのだろう。

 神の姿形が不明なのはキリスト教イスラム教など一神教でも同様だ。欧州では古くから神の姿を描いた絵画が存在するが、それらも想像力の産物だ(イスラム教では神の姿を描くことは禁じられている)。神の姿形が実際に人々に見えたのなら、神の実在には異論の余地は少なく、一神教などで「神を信じよ」と熱心に布教する必要はなかったかもしれない。

 八百万の神にしても一神教の神にしても、見えない存在であるのに、人々は神の存在を信じてきた。初期には、神の存在を感じる人がいて、次には神の存在を信じる人が増え、さらに神の存在が社会的に共有されて精緻な神学が構築されて人々は神の存在を知るようになった。時代と共に人々は神の存在を「感じ」、次には神の存在を「信じ」、さらには神の存在を「知る」ようになった。

 神の姿形は21世紀の現代でも人々には見えない。神の存在を信じる信仰は世界で組織化され、神の存在を信じる人々は世界に多い。だが、宗教的な規範が律している社会では神の存在を疑う人は少ないかもしれないが、政教分離の社会では信仰の強制力は緩み、もはや神の存在を知る人も信じる人も感じる人も社会で絶対的な多数を占めなくなっているように見える。

 八百万の神は人間を支配する神ではなく、野や山など各所に存在するとされる神だ。世界を創造し、人間を裁くという一神教の全能の神と八百万の神は、人々との関係が異なる。人々と共存する八百万の神は人々の生活圏の中にいるが、人々に超越する一神教の神は人々の生活圏の外部にいる。どちらも「見えない」存在であるが、存在する位置は大きく異なる。