望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

菩提を弔う

 菩提を弔うとは「死者の冥福を祈って供養を行う」ことだ(菩提は「煩悩を絶って得た無上の悟りの境地。仏果を得て極楽往生すること」で、菩提心は「仏道に入り、真の道を求める心。仏心、情け心」)。冥福は「死後の幸福。後生」で、後生は「仏教でいう死後に生まれる世界。来世」だ。弔うとは「人の死を悲しみ悼む。死者の霊を慰めるために法事を営む」。

 供養とは「仏前や死者の霊前に有形・無形の物を備え、加護を願い冥福を祈るための祭事を行うこと」で、法要を行ったり、香華や飲食などの供物を捧げたり、仏壇に花を供え、線香をあげて手を合わせたり、お墓参りすることなどが具体的な行動となる。これらの言葉は仏教に由来するものだが、もう日本では宗教用語としてではなく、一般化した風習として受け継がれているようだ。

 死後に来世があると考えないのなら、死者の冥福を祈る行為は無意味だと考えるだろうし、さまざまな供養を行うことも無意味になる。死後に来世があると考えないなら仏教の全ての行事が無意味と見えようが、そう考える人の多くもおそらく、死者を送る日本の風習だと思って供養を行い、菩提を弔う行事に参加している。そこでは供養の様式よりも死者を弔う気持ちが優先する。

 葬式や法要の様式は仏教でも宗派によって異なる。様式は人間が考え、受け継がれてきたものだから宗派が異なれば異なる儀式が発案され、それがその流派の正式な作法となった。葬儀や法要の様式はブッダが決めたものではなく、国により宗派により異なる形態となる。共通するのは葬儀や法要は、生きている人々が亡くなった人を弔うためにある行事であることだ。

 全ての人間に死は訪れる。おそらく古代から人類は、死による親しい人との別れを特別なこととして、さまざまな弔い方を行ってきたのだろう。死という概念を理解できなかったかもしれない古代の人々は、親しかった人との別れの悲しみを儀式化することにより集落など共同体で別離の悲しみを共有し、それが儀式化されて受け継がれた。

 死者を弔うことは人類共通の行動だろうが、世界では多くの国や宗教があり、それぞれに死者との別れが儀式化され、それぞれに葬儀や法要の様式がある。葬儀や法要の様式を共有することで人々は、死者に対する供養を行い、死者に対する敬愛や尊敬などの気持ちを示したと互いに確認もできる。

 死後の世界や来世を信じない人が増えた現在でも世界で葬儀や法要が、宗教など以前から受け継がれてきた様式に則って行われることが多いのは、それ以外に死者を弔う一般化した様式がないからだろう。無神論者のための葬儀や法要の様式は存在しないが、死者を弔うことに関心がもっと薄れたなら直葬などが増えるかもしれない。