望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり





科学と文学

 マスコミの報道もあって、人為的な原因により気候が温暖化していると「知っている」人は多い。そして、温暖化していると「信じている」人も多いようだし、暑い夏を体験したりして温暖化を「感じている」人も多そうだ。3つの言葉の違いは、「知る」は知識の問題で、「信じる」は信念の問題、「感じる」は感覚あるいは感情の問題だ。



 加藤周一氏に「科学と文学」という作品がある。かなり長いものだが、「知ること」「信じること」「感じること」の違いから加藤氏は論じ始める。「はっきりと表現された、包括的な、特定の原理(複数)に基づいて組織された体系的な知識は科学です。科学とは、世界についての、もっとも信頼すべき体系的な知識である」と定義し、3つの言葉を解読しながら、意識の働きを分析する。科学についての記述を追ってみる。



 「知る」には科学だけではなく常識的な知識も含まれ、常識的な知識には間違いも確実な知識も含まれる。常識的な知識が不確かだというわけではないが、科学的な知識の方がより体系的であり、包括的である。別の言い方をすると、日常的な知識を組織していくと、科学に近づく。ただ、日常的な知識には価値判断が含まれていることが多い。



 世界に対する態度決定は、単純に知識の問題ではなくて、むしろ、世界に対する感情的な反応から出発している。あるいは、世界に対する感情的な反応が態度決定の基礎にある。「信じること」にも感情が絡み、「感じること」には複雑なものと単純なものがあり、3つの言葉の相互の関係は複雑である。さらに、価値判断が日常生活のなかに絶えずある。



 日常生活から科学的知識を得るために重要なのは、観察する対象を選ぶこと。事実は無限にあるので科学者は選択しなければならないが、対象は、できるだけ単純な事実であって、繰り返すことができるものにする。科学は、繰り返すことのできる単純な事実から出発して、長い複雑な推論を通ってある結論に達する。



 科学で使う言葉の目的は世界の事実を叙述すること。殊に事実の関係を見つけだす、つまり法則を見つけだすこと。それを語るためには、はっきりした明晰な概念を用いる。明晰な概念と、論理的な推論過程を通して、世界の事実、殊に事実相互の関係を叙述する体系が科学だ。歎息の言葉とか呪いの言葉とか、怒りとか、喜びとかという、感情を表現する言葉は、科学の言葉のなかには全く入ってこない。



 加藤氏は、感情を表現する言葉から成り立っているのが叙情詩(文学)だとする。ここで連想するのが、マスコミに溢れる温暖化論議。人為的温暖化論の当否はさておくとして、科学的な推定の受け止め方としては、あまりに「文学的」だ。可哀想なシロクマさんとか、海水面上昇でいつか海に沈む島とか、まず危機感を煽って感情を刺激するのは、マスコミの常套手法とはいえ、受け手の判断をミスリードする可能性がある。