望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

第三地域の解体

 かつての世界は裕福な先進国とその他の多くの発展途上国に色分けされていたが、中国やアジア諸国の経済発展と資源輸出国の成長、世界を動き回るマネーによる世界各地での投資・開発などで準先進国が増え、色分けは複雑になった。発展途上国には第三世界に属すると見られた国が少なくなかったが、ソ連が崩壊し、中国が資本主義化したので第三世界(地域)という言葉は死語になった。

 かつての第三地域(=東西両陣営のどちらにも属さない地域)の諸国が抱えていた経済や政治・社会などにおける諸問題は残っているが、第三地域というくくりがなくなり、個別国家の問題として残る。市場主義に世界が覆われ、問題を抱える個別国家は「敗者」として見られるだけになった。
 
 そうした問題を考えるときにヒントとなりそうなのが加藤周一氏の言葉だ。加藤氏の『文学の用語ーー狭義の文学概念から広義の文学概念へ』(1979年)は、広義の文学を再定義することを論じた文章だが、第三地域の問題にも触れている。以下、関係がある個所を引用する(適時省略あり)。

 「現代の状況は、一方で現実の全体化としてあらわれ、他方では現実の細分化としてあらわれている。一方はいわゆる第三地域に典型的な現象であり、一個の中心に向かって集中する圧倒的な現実の全体である。他方は先進工業社会に共通の傾向であり、知識の細分化に応じて、市民の接する世界が、現実の全体から切り離されたように見える一局面である」

 「現実の全体化は歴史的状況の作り出したものである。その歴史的状況は、先進工業国による軍事的・政治的・経済的・文化的支配であり、そこで人間の在り方のすべてが定義されざるをえないところの支配者=被支配者関係である。
 多くの現象、例えば、飢え、文盲、広範な売春、農民および低賃金労働者の低い労働意欲、多数の役人と政治家の腐敗、買弁資本、軍事独裁政権とその人権無視、強い民族主義民族主義的大衆運動の左翼革命化の傾向などが第三世界にあるのではなく、ただ一つの現実、すなわち先進国支配とその国内的再現(支配者=被支配者関係の特定の型)がある。
 その現実を外から見れば、多くの現象が見える。殊に現地を調査し、客観的に「科学的」に、資料を分類し、整理し、分析して、状況を叙述しようとすればするほど、ますます多くの特徴的な現象がみえてきて、ただそのすべてが収斂する中心だけがみえなくなるだろう。
 たとえば合衆国の国連大使が、「第三地域に民主主義はない」と言ったときに、彼は第三地域にないものを数限りなく挙げることができたに違いない。彼は第三地域の現実の核心を全く理解してはいなかっただろう。内から見れば唯一の現実は全体としてあらわれ、その核心はアメリカ帝国主義である」

 「支配者=被支配者関係の枠組のなかに、全ての人間的現象(人間の堕落と尊厳、またその絶望と希望)はあらわれる。魯迅は、腐敗堕落が支配者を冒すばかりでなく、被支配者をも冒すことを指摘し、その根源が両者の関係そのものにあることを見抜いていた。
 問題は相互理解ではなくて(なぜならそれは基本的関係を変えないだろうからだ)、相互無理解の意識化であるとフランツ・ファノンはいった。支配者=被支配者関係の状況と、人間関係の世界とは、直接に結びついて切り離し難く、一個の求心的な構造としてあらわれるのであり、それが現実の全体化ということである」