望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

主人公の暴力

 アクション映画では主人公が容赦なくバッタバッタと「敵」を倒すシーンが最高の見せ場となり、主人公が「敵」を殺しまくることも珍しくない。降参した相手に情けをかけて許してやろうとした主人公が、隙をついた相手に突如反撃され、危機一髪のところで相手を倒してトドメを刺すという設定もよくある。

 日本映画では時代劇や任侠映画で主人公が群がる「敵」を次々に倒すシーンが最高の見せ場となり、非道な行いを重ねる「敵」に我慢に我慢を重ねた主人公の怒りがついに爆発し、主人公の圧倒的な強さが解禁されて「敵」をなぎ倒す。その主人公がヒーローとして留まることはなく、さすらい者として何処かに去っていくとの設定も多い。

 米国映画などでは、人々を襲う悪の集団とか地球を侵略する異星人とか「敵」は絶対悪として最初から設定され、そうした絶対悪を倒すのは無条件の正義と肯定され、「敵」に対する主人公の実力行使(=暴力)がクライマックスの見せ場となる。絶対悪の「敵」の非道さに主人公が我慢を重ねるのではなく、闘いながら何度も窮地に追い込まれ、何とか脱出して闘い続けるというストーリーが多い。

 時代劇や任侠映画では主人公に敵対する相手を極悪非道の人物であると描くことがストーリー展開の主軸となるが、米国のアクション映画やSF映画などでは主人公が絶対悪の相手と闘い続けることが主軸となり、人間であっても絶対悪の人物像はモンスター的人物だとの描写になり、観客は絶対悪の登場人物に感情移入せず、絶対悪の相手が主人公に倒されても喝采するだけだ。

 観客が映画の主人公の暴力に共感し、主人公の暴力を肯定するのは、「敵」に対する主人公の容赦ない実力行使=暴力を喜ぶようにストーリー展開で誘導されるからだ。加えて、観客は主人公の実力行使=暴力が存分に発揮されるクライマックスシーンを想定して観に来ており、主人公が容赦なく「敵」を倒すことを期待している。その期待が満たされて観客は喜ぶ。

 「悪を憎んで人を憎まず」という言葉があり、昔のTVドラマ「月光仮面」では主人公は悪人の「敵」を懲らしめるだけで殺すことはなかったという。原作者の川内康範氏の「憎むな、殺すな、赦しましょう」という言葉は函館市にある月光仮面の像の台座に刻まれている。悪人だからと問答無用で殺してもいいという発想が映画ではフツーになった現在、「憎むな、殺すな、赦しましょう」の精神は忘れられている。

 主人公に敵対する相手を好敵手(ライバル)として描くことは現在でもアニメなどではフツーだ(悪人だから殺してもいいとは子供に見せられないか)。好敵手ならば共存は可能だが、絶対悪の相手とは共存は難しく、妥協の余地はないだろうから、映画では主人公が「敵」を容赦なく倒す。娯楽として観客は一時の高揚感を得ることができて楽しむのだろうが、絶対悪と相手を設定した途端に相手を殺すことが許容される。それが観客の現実に対する世界観に影響を与えているのでなければいいが。