望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

「悪」の設定

 例えばヤクザ映画では、久方ぶりに舞い戻った主人公は、世話になった組が新興勢力(たいてい、こいつらは汚いやり方をする)に押されているのを見る。主人公は親分の教えを守って耐えに耐え忍ぶものの、筋を通そうと曲がったことをしない親分が闇討ちされ、「もう黙っていられない」と身を捨てても筋を通そうと決断、殴り込みをする……このテの話の流れが多い。



 クライマックスでの主人公の暴力を「正当化」するのが筋立ての骨格。「うわっ、あんなことをされてる」「げっ、こんなことをされたよ」という場面を続け、耐えていた主人公が怒るのはやむを得ないと観客に思わせ、さらには、主人公が怒るのは当然だと持っていく。



 殴り込みまで我慢せずに、その前の段階で行動していれば、死んだり負傷する人が少なくて済むのに……とも思えるのだが、それでは映画の面白さが薄められる。やはり、最後に主人公が思いっきり大暴れして、多数の敵をバッタバッタと倒してエンド・マーク……血しぶきが画面に飛び散ろうと、「ああ面白い映画だった」と観客に思ってもらえれば、成功だ。



 主人公の暴力を正当化するという展開の映画は内外ともに多い。アクション映画のほとんどは、そうだといってもいい。ただ、ヤクザ映画などでは、主人公の耐える姿をていねいに描くことが多いが、ハリウッド映画ではそこが簡略化され、敵は初めから悪として描かれる。主人公は初めから悪に立ち向かい、悪の力が強くて打ちのめされ、傷つきながらも最後には悪に勝つ(油断した敵が隙を見せるという筋書きも多い)。



 敵の設定がハリウッド映画ではシンプルだ。西部劇ではインディアンが敵として初めから設定され、彼らの人間味などは描かれることは少なかった。次にはアラブ系テロリストなるものが敵に設定され、最近の流行は地球外からの侵略者だ。ハリウッド映画の最近の主人公は悲壮な顔つきで「地球の危機を救うため」などと言い、自身の暴力を正当化する。



 アクションもののハリウッド映画に人間ドラマを求めるのはお門違いで、敵は悪でしかなく、主人公が悪を倒すのを観て、最近ではCGを多用した映像を楽しめばいいのかもしれない。しかし、敵が見えにくくなった時代にハリウッド映画は、どう敵を設定するのだろうか。

 アラブ系の米国人が増えて、安易にアラブ系を敵に設定できなくなり、次には地球外からの侵略者を敵に設定したが、いささか食傷気味。アジアは大きなマーケットなので中国人などを新たな敵には設定できず、ハリウッドのアクション映画は「自明な敵」を設定しづらくなった。初めから設定しておくのではなく、丁寧に描くことで悪を浮かび上がらせるというシナリオが必要なのだが、さて、ハリウッド映画にそれができるか。