望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

水戸黄門の正義

 1969年から2011年まで42年間も放映されていた「水戸黄門」というテレビドラマがあった。「世の為、人の為になる時代劇」というコンセンサスのもとに誕生した(TBSの「水戸黄門」公式サイト)との位置づけだ。黄門様一行が全国を旅し、不正や悪を暴いて悪人を懲らしめ、ついでに、お家騒動も解決したりした。



 主役の水戸黄門の判断が絶対に公平で公正で、言うことが間違っていないという暗黙の前提があるから、勧善懲悪のドラマは成り立っていた。その上に、隠居した縮緬問屋を装っていた黄門様が実は「さきの副将軍」であると最後に明かされ、幕藩体制の下で黄門さまと権力との密接な関係が明示されるのであるから、悪人とされた連中は抗議することも抵抗することもできない。



 悪事を働いていた代官や城勤めの役人(武士)らは、うるさく嗅ぎ回る連中を、旅の町人だと見下して始末しようとするが、その相手が実は自分らより身分が上で、さらに検事であり裁判官でもあるというのだから、抵抗しても無駄だ。悪人らにも自分たちなりの正義があったとしても、絶対的正義の側の相手から悪と断定されたら、言い分など通るはずもない。



 もし、勧善懲悪のドラマの主人公が、公正な判断を標榜しながら実は偏った信念を隠し持っていて、ことの善悪の判断に、個人的な善悪の基準を持ち込んだ正義を振り回して、相手を悪と決めつけて断罪するというなら、そんな勧善懲悪ドラマに視聴者は違和感を感じるだろう。



 例えば、水戸黄門個人が考える正義に相手が反しているとし、相手が悪人だとするのに都合がいい証拠ばかりを集めて、「おまえは、こんなにひどい悪人だ」と断定し、印籠をかざして「控えおろう」などと反論を許さず、一方的な正義で相手を断罪するドラマ……こんなのは興ざめだな。



 ただし、勧善懲悪ドラマのストーリーは、主役を絶対的な正義の側と設定し、悪役には極悪非道な振る舞いをさせ、視聴者から悪役への反感を募らせたところで、主役が悪役に勝つのが常法。中国などで多く放送されているという、日本軍や日本人を悪役に仕立てた反日愛国のプロパガンダドラマはこのテのものだろう。主役が最後に勝つことで、主役の正義を視聴者にも共感させることが目的だ。



 公平で公正な正義なるものは、完璧を装うほどに、少しでも疑念をもたれたなら、すぐに信用されなくなる。疑念を持たれた正義が信用を回復するためには、印籠を振り回して「控えおろう」と疑念を抑えつけるのは逆効果で、その正義を第三者に検証させ、間違っていた点を明確にし、その上で正義を再構築するしかない。ただし、再構築した正義で、信用を回復できるかどうかは不明だが。



 42年も続いた勧善懲悪のテレビドラマが終わったのは、水戸黄門の正義に疑念を持たれるようになったからではなく、黄門様の正義が予定調和すぎて、視聴者にとっては、つまらなくなったからだろう。飽きられる正義というものもある。