望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

「のたれ死に」は難しい

 若くて健康で、独り身で気ままに暮らしている時なら、自分の最期について「俺は、のたれ死にするから」と言ってみることは簡単だ。その「のたれ死に」の言葉には、孤高を貫いて孤独に死んでいくというようなロマンチックなニュアンスさえ漂ったりする。自分の死を現実的なものと受け止めず、若さの気取りがつきまとっている。



 そこに反体制の気分が加わると、「俺は、のたれ死にする」から健康保険や年金制度など国家の“助け”は要らないと言い出したりし、さらには、抑圧的で保守的で、個人に対して強権を振るまったりする国家なんて不要だとエスカレートし、無頼を気取る。自分一人で生き抜いてみせる……なんて気負いが加わったなら、ますます国家が不要なものに見えてくる。



 若くて健康な時には、本当にそう感じて言ってみたりしているのだが、時間は容赦なく進んでいき、若さは永遠には続かない。家庭を持ったり、子供が生まれたり、ケガをしたり大病をしたり、向き合わざるを得ない新たな現実が次々に現れ、いつまでも無頼を気取ることはできず、「のたれ死にする」なんてことも言わなくなる。



 独り身で気ままな暮らしを貫くことができるほどの資産があれば、国家は不要だと背を向けて反体制を貫き、孤高に生きて、孤独に死ぬこともできようが、それでも、のたれ死にとはいかない。大昔なら、のたれ死にした人は無縁仏として葬られてケリがついただろうが、現代では、のたれ死にした死体の火葬や死後の法的処理などは誰かがせざるを得ず、死んでも国家の管理から逃れることは難しい。



 「俺は、のたれ死にするから」というのは、現実逃避の一種なのかもしれない。のたれ死にを夢想するのは、若い人など社会とのつながりが希薄であるからで、仕事や人間関係、様々な活動などで社会との結びつきが広がると、のたれ死ぬことなんかよりも、自分の能力を発揮して社会や人生を動かすなど、自分を生かす大事なものがあることを知る。



 社会における自分の立ち位置が変わると、言うことが変わるのはフツーのことだ。それを宗旨替えだなどと批判しても、あまり意味がない。見聞も狭く、人生経験が乏しい若い時に言ったことにとらわれていては、人生をうまく渡っていくことは難しい。のたれ死ぬことよりも、しぶとく生き抜く……それも、人生にしがみついて、他からどう見られようと気にせず、生き抜くという気持ちが育つのも、人生が与えてくれる“果実”かもしれない。