日本の新しい内閣では女性閣僚が2人だったので、「少ない」「少なすぎる」などの批判が現れた。女性閣僚が少ないとの批判は組閣のたびに繰り返されてきたが、一向に女性閣僚が増える気配はなく、日本の強固な男性支配社会の象徴にも見え、女性活躍社会なるものの中に政界は含まれないようだ。女性閣僚が5人だったのが過去最高人数。
女性閣僚が少ないとの批判では、諸外国との比較が必ず持ち出される。フィンランドでは女性閣僚が内閣の約6割と多く、仏独など30カ国では4割以上の女性閣僚がいるそうで、日本の女性閣僚の少なさが際立つようにも見える。だが、日本でも閣僚は男女同数にしろとか閣僚の4割を女性にしろなどと具体的な要求は乏しく、女性閣僚が少ないことを批判するにとどまる。
男性優遇(=女性冷遇)を否定して男女同権が制度化されている社会で女性閣僚が少ないことの問題は、女性の冷遇が続いていることが可視化されることだ。とはいえ、閣僚を選ぶときには能力を第一に考慮しているであろうから、結果として女性閣僚が少なくなったのか、選ぶときに意図的に男性を優先したのかは、部外者からは判断できない。
能力が高いのに女性だからと閣僚に選任されず、凡庸な男性が閣僚に選任されるのは社会の損失であろう。だが、閣僚候補になる人物群には能力差は少ないとするなら、男性議員数の多さ(=女性議員数の少なさ)が根本の問題だと見えてくる。女性議員は衆議院(465)で約1割、参議院(248)で約2割なので議員数に比例させると、閣僚数の1割半ほどは女性であるべきとなる。女性議員の人数が増えれば、女性閣僚の数も増えるか。
大臣の椅子は順送りで、当選回数や派閥での貢献度、首相との親密さ、派閥の力関係などで指名されるとの説が以前から語られていた。能力が重視されるのは主要閣僚だけで、残りの閣僚を選ぶときに能力などは二の次になるそうで、官僚が優秀だから大臣には高い能力や見識などは必要ではなく、無難に官僚の振り付けで大臣を演じていればいいてな見方もあった。
現在、自民党議員が衆議院の6割以上を占め、世論調査などでは野党の支持率が低迷を続けていることから、次の総選挙でも自民が勝利し、組閣することは確実そうに見える。女性閣僚をもっと増やせという批判に応えて自民党が組閣すると、自民党の女性議員がゾロゾロと閣僚に就任することになろう。女性閣僚が増えても、能力が高く高潔で人品いやしからず自己顕示欲は控えめで、自己の利益よりも人々の利益を優先する人物が増えるかどうかは定かではない。
女性閣僚が増えることは、男性支配社会の後退と多様性を尊重する社会に移行したことを示す。だが、女性だから有能であるとはいえず、もちろん男性だから有能だともいえない。男女の性差と政治的な能力は無関係だとすると、女性閣僚が増えれば良き政治が行われるとはいえない。凡庸な男性閣僚の代わりに凡庸な女性閣僚が増えたとしても、政治は変わらず、見捨てられる人々は見捨てられる。