スキャンダルというと日本では、芸能人らの恋愛沙汰や金銭トラブルなど“醜聞”をさすイメージだが、もともとは汚職事件、疑獄などを意味するし、英和辞典によると「スラム街は我々の町の恥である」(The slum is a scandal to our town)などとも使われ、不名誉なこと、恥ずかしいこと、けしからぬこと等を広くさす言葉だ。中傷や悪口、陰口の意味もある。
だから、スキャンダルを暴くのは週刊誌やスポーツ紙などの専権事項ではなく、汚職や疑獄を始め、社会に存在する不名誉なこと、けしからぬことなどを報じる一般紙もスキャンダルを暴いているといえよう。その新聞社が、社会的に大きな影響を与えた誤報を放置し、32年も経ってから誤報だと認め、訂正したというのは、報道機関として大きなスキャンダルだ。
スキャンダルをさんざん報じてきた報道機関が、誤報を放置していたという自身のスキャンダルで騒がれたのは皮肉な光景だが、誤報は実は報道機関につきものでもある。記者の取材不足や事実誤認、編集スタッフの見逃しや事実誤認、怠慢などによって誤報が世に流れていく。どんなに綿密に取材したつもりでも、一つの事実を見落としただけで全体像が歪むことはある。
誤報といっても様々あるが、やっかいなのが事実と主観の混同。扇谷正造氏の『夜郎自大』によると、戦前の新聞はしばしば紙面で当事者を断罪したといい、戦後の占領下でGHQは、▽事実と意見を区別して掲載せよ、▽客観的な事実に対し、記者の意見あるいは解釈を述べる場合には、記事の末尾に署名せよ、▽署名記事と報道とは、紙面をかえて掲載せよなどと指示したそうだ。
昔から誤報は批判され、事実と主観が混同した記事も批判された……が、なくならない。誤報を減らすために記事チェック体制を見直す一方、誤報はあるものとして、報道後に厳しく客観的に検証し、誤報が疑われる記事を洗い出し、誤報と判明すれば速やかに訂正することが不可欠だ。だが、誤報を防ぐ体制が過剰な事前チェックを要することになって管理が強化され、記者の活力を削ぐことになるなら、当たり障りのない記事しか出てこなくなりそう。
誤報はないけれど退屈で刺激もない新聞と、誤報はあるけれど活気があって刺激がある新聞のどちらかを選ぶなら、どうするか。「誤報は速やかに訂正する」という条件付きで、刺激があって活気もある新聞のほうが楽しそうだ。誤報を恐れず、誤報は記者の向こう傷……なんて実際にやられては困るが、それくらいの心意気が、常に変化を続けている世界と切り結ぶスタッフには必要だ。ただし、事実と主観の区別は誤報以前の問題。