望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

全能の神の存在

 この世界をつくった全能の神がいて、その神が人間をもつくったとする。人間にとって全能の神は、自分たちを生んでくれた親みたいな存在なのであるから、あがめる対象となるのが自然のはずだが、そうはならなかった。この世界には全能の神の存在を信じない人々が多数いる。それで、神は御言葉を人間に下しおかれ、「神を信じよ」と人間に布教活動を始めさせた。



 ここで疑問が出てくる。全能の神が人間をつくった時に、全能の神が存在することを人間の記憶に埋め込んでおけば、後になって「神を信じよ」などと布教活動を人間に行わせる必要もなかった。唯一の全能の神が存在することを人間が知っていれば、数多の宗教が誕生する余地は少ないだろうから、宗教を背景とした紛争、戦争なども起こらなかったかもしれない。



 全能の神は、人間をつくる時に、神の記憶を埋め込むことをなぜ行わなかったのか。考えられるのは、1)神がつくった、初めての人間には神の存在が見えたので、後の人間も同様だと神は思い込んだ、2)人間が神の存在を疑うようになるとは神は予想しなかった、3)神の記憶を人間に埋め込むことを神は失念した。



 いずれも全能の神がミスったということであり、これらは神の全能性に疑問符をつける。つまり、「神を信じよ」と人間に布教活動をさせなければならない神は、全能の存在ではなく、間違うこともあるという人間臭い存在。そんな神がつくったという世界に、不備やトラブルが多いのは当然か。



 他に考えられるのは、4)世界に人間が増えてから、神を敬ってほしいと全能の神が思うようになった、5)人間の信仰心を試すために、神の記憶を人間に埋め込まなかった。4)は全能の神が気まぐれでもあることを示すもので、これも全能性を傷つけよう。5)は、全能の神がつくった人間を「なぜ、わざわざ神が試すのか」という根本的な疑問を消すことができない。人間世界を全能の神は、ゲームを見るように面白がって見ているのか。



 さらに、6)全能の神は人間には関心がないから、神の記憶を埋め込まなかった……とも考えられる。多くの人間にとって、足元で動くアリたちの存在に関心がないように、神にとって人間は、死のうと生きようと、苦しもうと楽しもうと、どうでもいい存在でしかないから、無関心だとの解釈だ。すると、人間が行う布教活動にも全能の神の関与はなく、人間が思いついたものでしかないことになる。



 神が全能であり、神の存在を人間に認識させようと神が考えるなら、生きている全ての人間の記憶を操作して、全能の神の存在を新たに埋め込むこともできるはずだ。「神を信じよ」などと人間に布教活動させるよりも遥かに効率的だ。だが、そんなことを全能の神は行わない。全能の神が存在するという徴候さえ示さない。



 ここから導き出されるのは、1)全能の神は存在しない、2)全能の神は存在するが、人間には無関心、3)神は全能ではない……のいずれかだ。神が全能ではないとするならば、全能の神を想定する宗教は人間の創造したものとなろうし、全能の神が人間に無関心なら、神に救いなどを求めても無駄だ。神は全能ではなく、人間臭い存在だとするならば、八百万の神々やギリシャ神話の神々のイメージになる。