望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

太陽信仰

 久々に会った友人と一献酌み交わしていたら、ポツリと「朝起きると、窓から東の空に向かって、手をあわせるンだ。太陽が見えることもあれば、雲がうっすらと明るくなっているのが見えるだけのこともあるし、雨降りのこともある。でも、東の空に太陽があるのは確かだから、今日も御守り下さいと太陽を拝むようになった」。



 その友人は東京で勤めていた会社を早期退職して、地方都市の郊外に移り、小さな畑を耕しながら悠々自適の生活を送っている。彼は過去に宗教と関わったことはなく、占いやら言い伝えなどにとらわれることもなく、陰謀論などにも無関心だった。信心深いというタイプではなく、合理主義者といった方がいい人間だ。



 そんな彼が太陽を拝むようになった切っ掛けは、「別にない。なんとなく思いついて、拝んでみたら1日の始まりにメリハリがつくような気がして、それ以来、なんとなく続いている」。拝むようになって何かいいことがあったかと聞くと、「そんなもの、あるはずがない」と笑う。



 彼は、太陽が神ではないことを知っている。太陽が水素の集合体で、核融合してヘリウムに替わっていることで、膨大なエネルギーを放出し、それが地球に光や熱として降り注いでいることも知っている。太陽と同じ恒星が宇宙には無数に存在し、太陽より遥かに巨大な恒星が存在することも知識として理解している。



 ただ古代からの太陽信仰について彼は「調べたことがない」と興味がなく、太陽信仰と関わる天皇制についても、「そんなこと、考えたこともなかった」という。「天皇制のそもそもが太陽信仰とつながっていたとしても、現代の天皇制は、明治維新以降に日本が近代国家の体裁を整えるための道具として再構築されたものだから」と彼は、太陽を拝むことと現在の天皇制には関係がないとする。



 人が仏像を拝むのは、物質として存在する仏像に何らかの神性・仏性を感じたり、期待するためだろうが、神ではないと理解している太陽をなぜ拝むのか。彼は「拝んではいるけれど、信仰ではないんだろうな。太陽の恩恵に感謝するというより、新たな1日を生きることに感謝するという気持ちかもしれない。誰に向かって拝んでもいいンだけど、朝の太陽が何となく、ふさわしい」とおおらかだ。



 彼が住むのは、住宅は増えてはいるがまだ自然が豊富に残っている土地だ。東京から移り住んで2年ほどだが、そんな環境での生活がすっかり気に入っている。「木々が覆う山や薄暗い森の中を歩くと、何かの存在を感じるような気になることがある。八百万の神なんて存在しないだろうが、存在しても構わない。畏怖の念というより、ゆったりした気持ちになる」と彼。



 続けて「神が存在するから信仰が生まれたのではなく、自然の中で生きるうちに信仰心めいた感謝の気持ちを人間が持ったから、その対象としての神が創造されたのではないか」と彼は、原始的な信仰の始まりを推察してみせた。自然が豊かな中で生活することは、想像力なども刺激するようだ。