望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

譲位できかった大正天皇

 長嶋茂雄という人々に愛された天才的なプロ野球選手がいた。1974年に引退したのだが、人気者の長嶋茂雄であり続けている。プロ野球選手という職務からは引退できるが長嶋茂雄という個性からは引退できない。もし、長嶋茂雄が特別な選手だからと、引退を許されず生涯現役でいなければならないとしたら、体力や気力の衰えもあるだろうから、いつか、現役を続けなければならないことが苦痛になるだろう。


 引退の様式は職業によって異なり、例えば、歌手など個人で活動する職業の場合は生涯現役を続けることが可能だ。ただし、売れなければ若くても消えていったりするので、常に引退と背中合わせでもある。生涯現役を続けたとしても、ヒットが続くことは稀で、やがて忘れられていく。生涯現役のつもりでも、いつしか声量が衰え声域が狭まったりもし、懐メロ番組などで無惨な歌声を聴かせるはめになったりもする。


 病んだり老いたりする人間が高齢になって、それまでの職務・責務を手放し、続く世代にバトンタッチすることは社会の流動を促し、活力を保ちつつ安定させる循環システムであろう。本人にとっても、第一線を退き、社会的な役割などが次第に薄れ、平穏な日々を過ごすようになることは、人生の果実の一つであるかもしれない。


 天皇は日本の象徴とされ、存在することが責務となる。でも、ただ座っているだけではなく、象徴としての様々な公務があるほかに、天皇として振る舞うことも要求される。自分が天皇であることの使命感を常に持っていなければ、天皇を“続ける”ことが重荷になることがあるかもしれない。


 公的な存在であることに限界を感じた個人なら、自分の意思で引退は可能だが、象徴として存在することが責務である天皇は老齢になっても簡単には引退できない。個人の意思は制約され、天皇として存在し続けることを要求され、それに応え続けなければならない存在だ。神であったのなら引退など考えなくてもいいのだろうが、現人神はもういない。


 人間には様々な限界があり、天皇としての役割・責務を果たせなくなることもある。病気で天皇の責務を果たすことができなくなり、摂政を設置されたのが大正天皇だ。象徴としての天皇ではなく現人神の天皇の時代であったのだが、記憶や言語に障害が見られ、ついには寝たきりになったというから、存在としての天皇の姿を見せることもできなかっただろう。


 そんな大正天皇でも譲位できなかったのは、存在するだけで尊いとの考えが強く、現人神としての公務は軽視されていたからだろう。象徴としての天皇には象徴としての公務があり、その公務を満足に務めることができなくなったと自覚した天皇本人が、象徴としての存在に強い責任感を持っていたなら、ポジションを次の世代に譲るという考えが生じるのは自然なことだろう。