望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

引退の決断

 五輪が終わって暫くすると、参加した選手の引退が報じられるようになる。ニュースになるのは上位でメダル争いした選手たちに限られるが、様々の競技で多くの選手が引退し、世代交代が行われているだろう。こうした引退は競技から離れることを意味するのだろうが、アマチュア選手なら第一線からの引退もある。

 第一線からの引退とは、代表選手になることを辞退したり、勝利だけを目指すことをやめたりすることだが、勝敗や順位にとらわれず楽しむためにスポーツは続ける。過酷な練習から解放されて、ミスやヘマも笑いのタネにし、体を動かすことを楽しむようになるなら、それは一般の人にとってのスポーツの意味と同じになる。

 プロ選手には第一線からの引退は許されず、引退はその競技からの離脱を意味し、生活の糧を失うことも意味する。9月に入るとプロ野球界では選手の引退表明が相次ぐようになり、主力だった選手の引退は大きく報じられ、10月になると各球団が戦力外通告を始め、スポーツ新聞の「12球団戦力外・引退選手一覧」などに掲載される名前が日ごとに増え、スター選手だけでプロスポーツが成り立っているわけではないと実感させる。

 目立った活躍をすることがなかったプロ選手なら引退を当人も周囲も受け入れやすいかもしれないが、活躍した実績を持つプロ選手の現役引退の判断は簡単ではないだろう。年齢とともに成績が下降するのは避けられまいが、まだ一流と見られているうちに“美しく”引退するか、二流扱いされるようになっても現役を長く続けるか。どちらもそれなりに納得できる選手生活であろうから、個人の美学の違いとでも見るしかなさそうだ。

 プロ選手の引退の美学の最たるものは、一流として活躍しているうちに引退することか。まだ、できるのにと周囲やファンは驚きつつ惜しみながら、その競技への愛着が強くはなかったと明かされたようでもあり残念に感じたりする。プライドが強い人ほど、一流でいるうちに引退したがるのか、ボロボロになっても俺は俺だと続けるのか定かではないが、惜しまれつつ引退することはプロ選手の特権の一つか。

 格好のいい引退だけが美学の対象ではない。若手に負けたり、若手に追い越されたりすることも、若手の目標になる一流選手の責務だと考え、若手に負けるまで現役を続けるのもプロ選手の美学だ。若手に追い越されたなら、世代交代が自分の身にも及んできたと自覚でき、為すべきことは為したと現役への未練が薄れて引退を決断しやすくなるかもしれない。

 スポーツ選手の全盛期は長くはない。10年も一流選手でいられたなら大選手と称讃されるだろう。ファンも、うっかりしていられない。関心が薄れて10年も遠ざかっていたなら、活躍する選手の顔ぶれが大幅に変わってしまう。主力選手の多くが自分より年下になって、プロ選手が憧れる対象というより、ただ眺めるものになったりする。引退は選手の世代交代を進めるとともに、ファンの世代交代も進める。