望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

典型としての人体

 人間の誕生以前から神は存在していたとするのがキリスト教イスラム教の考え方だ。神の姿は人間には見えないから、神がどのような姿をしているのか人間は知らない。イスラム教が偶像崇拝を禁じるのは、見えない神を人間が勝手に作り上げることは神への冒涜だと考えるからだ。

 仏教には絶対神はいないが、如来や菩薩、明王など多くの尊い存在があり、仏像などでは人間の姿で表現される。古代インドの神々を取り込んだ天は異形の姿で表現されるが、彼らは後から仏教に取り込まれた存在であり、如来などを守る守護神の役割だ。

 釈迦(シッダールタ)に始まる仏教で、如来は悟りを開いた者で最も尊い存在とされ、菩薩は悟りを開く前の修行中だが、衆生を救済する者のこと。仏道を妨げるものに立ち向かう明王如来の化身ともされ、忿怒の形相で表現されるが、体は人間のようだ(古代インドの神を取り入れたとされる)。

 如来や菩薩などが人間の姿で表現されるのは、神ではなく人間だから。悟りを開いたり、悟りを開く修行中であったりする人間が如来や菩薩だから、その姿は人間の姿になる。ただし、生死を超越した存在で、衆生を救うとされるから、もう人間の世界を離れており、神のイメージに似る部分もある。

 如来や菩薩を見た人間はいないし、その存在は確認されてもいない。だが信仰の対象として如来や菩薩は人の姿で表現される。信仰の対象は、神道なら個別具体的になるだろうが、仏教では如来や菩薩などと抽象的になる。だから仏像などで表現される時には人の姿であっても、様式化された典型をなぞることになる。

 仏教が日本に入って数百年たち、鎌倉時代に新仏教が興り、仏像の表現に大きな変化が現れた。様式化された典型としての人体ではなく、個別具体的な人体といってもいいリアルな造形がなされ、表情は、永遠を眺めるのではなく一瞬をとらえた個性を表すものになった。

 仏像にとって肉体(個性)とは何か。悟りの前では肉体の存在は無意味だろうが、如来や菩薩を表現した仏像で「肉体の復権」が行われたのは、“人間味”が増すことで実在感を増した如来や菩薩が共感されたからだろう。それは、特権階級ではない人々の活力が増した時代背景も関係しているかもしれない。運慶の作った仏像は多くのことを考えさせる。