望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

目を合わせる

 京都や奈良など全国各地の古刹が保有する仏像を借り出して、東京などの美術館や博物館で展示する催しは年中どこかで行われている印象だ。日本は全国で古刹や仏像の数が多いことに加え、人気がある仏像をメインにした催しなら数年ごとに全国どこかで開催される。

 古刹から仏像を借り出す展示会が多いのは、動員数が好調だからだろう。人が集まるといっても、それは、ありがたい仏像を拝む信仰心からではなく、優れた彫刻作品を美術品や芸術作品として鑑賞するためだ。美術館や博物館で仏像に向かって手を合わせて熱心に祈っている人を見かけることはほとんどない。

 仏像は美術品や芸術作品として作家が創造したものではなく、仏教の信仰の具体的な対象として制作されたものだ。拝むものから眺め鑑賞する対象に仏像が変わったのは、仏教信仰の衰退の表れでもある。だが、信仰心に支えられて制作された彫刻や絵画などが、宗教とは離れて創作作品として鑑賞の対象になるのは日本に限らず世界的な現象だ。

 仏像は仏教が説く至高の価値などの表現であり、悟りを開き、真理に到達したという如来や菩薩、明王などが造形される。如来などは修行を経て人間が到達した姿とされるから、人間の姿で造形される。だから、肖像彫刻として鑑賞されることに抵抗が少ないのだろう。

 さらに「7世紀後半から8世紀にかけての日本に、様式上の創意はなかったが、実に美しい像が多く作られた」「鎌倉時代の代表的な作品は、それが菩薩像であっても仁王像であっても、人間の身体から出発して人間を超える。仏像の人間化は、必ずしも現実の人間の写実ではなくて、むしろその『理想化』である」(加藤周一『日本その心と形』)と優れた造形作品が多い。

 仏像には、ちょっと変わった鑑賞法がある。それは、仏像の顔の正面に鑑賞者の顔を持っていき、仏像と視線を合わせることだ。仏像の視線の方向は様々で、視線を合わせるために鑑賞者はしゃがんだり背伸びをしたりと動かなければならないが、視線が合った時に鑑賞者は仏像の強い眼力を感じ、仏像が何かを伝えようとしているような印象を受けるだろう。

 古刹の金堂に安置された巨大な仏像があると、正面に立って見上げた鑑賞者は仏像の少し下向きの顔と見合い、視線が合ったりする。慈愛に満ちた目と仏像の存在感に圧倒される感覚になるだろう。仏像と目を合わせることで人は、単なる美術品や芸術作品にとどまらない仏像の力を感じることができよう。