望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

信じるもの

 ユダヤ教・キリスト経・イスラム教に現れる神は世界を創ったという。他にも、神が世界を創ったという神話は世界各地にある。だが、そうした神の創ったという世界に、例えば、恐竜は登場しない。これが意味するのは、そうした創世神話は当時の人間の知見に基づいて組み立てられたということだ。

 神が実在するのか神が世界を創ったのか、立証するのは不可能だ。神の存在は信じるしかないから、宗教になる。現在の科学で解き明かされた地球史に背を向けて、神がこの世界を創ったと信じるのは個人の自由なのだが、科学的な知見に背を向けた宗教が影響力を持つことは弊害があるだろう。

 仏教では、生きることは生労病死という苦しみ・迷いの世界のサイクルの中にあるとし、そのサイクルから離脱するのは悟りを開いた人だけだとする。またブッダや諸仏に祈願することで救いがあるとされるが、これも立証は不可能で、信じるしかない。この世界が迷いや苦しみに満ちていると感じる人なら信仰しやすいのかもしれない。

 立証できない存在などに対する反応は、①信じる、②信じない、に分かれるが、「立証できない=存在の否定」ではないから、③判断を留保する、という立場がある。判断の留保とは、肯定も否定もしないことであり、論語に「怪力乱神を語らず」とあるのは、この③の立場に通じるかもしれない。

 政策など政治的な事柄に対する判断の留保は、うっかりすると現状追認になってしまう。だが、神の存在などのように立証が困難な事柄に対する判断の留保は、肯定することもできないし、否定することもできないということ。判断するための材料が不十分だと認識しているから、判断を留保せざるを得ない状態だ。

 神の創った世界に恐竜が存在しないことは、全能なる神は存在しないことを示している。だが、神の創った世界に恐竜は存在したが、神が人間に恐竜の存在を語らなかっただけとも解釈できるが、それも立証は困難だ。神の存在の立証は困難なので、その神の意志の存在も人間にとっては立証が困難で、信じたい人は信じるしかない。

 神の存在などに限らず立証できないものは日常においても珍しくない。例えば、インターネット上には、正しいのか間違っているのか真偽不明の情報が溢れている。そうした情報に対しても、①信じる、②信じない、③判断を留保、に分かれる。判断の留保を意識して行うことが、虚偽の情報に振り回されないためには効果があるだろう。