望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

「知る」こと

 神の存在を「信じる」人は多いが、それらの人が全て神の存在を「感じる」かどうかは定かではない。おそらく神の存在を「感じる」人は神の存在を「信じる」人よりも少ないだろう。神の存在を「知る」人はさらに少なく、皆無かもしれない。

 同様のことは、死後の世界や幽霊、超能力、霊感、UFOの存在など多くの事柄についても言える。存在が曖昧だから「信じる」ことや「感じる」しかなく、確実に存在していると「知る」ことは困難だ。陰謀論の多くなども「信じる」人が広め、「信じたい」人が受容しているように見える。

 「信じる」「感じる」は個人の精神の中で起きることだ。集団として「信じる」「感じる」ことはない。「信じる」個人が集まって宗教集団を形成することは珍しくないが、そうした集団が巨大化して集団として強力な力を持ったとしても、「信じる」個人の集まりであることは変わらない。

 「知る」は個人の精神の中で起きることだが、「知った」ことは共有できる。科学的な真理や仮説の多くは個人の研究者などが発見したり、解明したものだが、世界で共有される。誰かが「知った」ことを共有することは、誰かが「信じる」ことや「感じる」ことを共有するより、はるかに容易だ。

 「知る」ことは知識の問題、「信じる」ことは信念の問題、「感じる」ことは感覚あるいは感情の問題ーーと論じるのが加藤周一氏だ(『科学と文学』)。「知る」ことと「信じる」ことと「感じる」ことは、知識、信念、感情の問題であると同時に、その典型的な表現は科学、宗教、抒情詩(文学)になるとする。

 さらに、「知る」には科学的な知識と日常生活における常識的な知識があり、「信じる」には不確かな知識を表現する場合と、価値判断を表現する場合があり、「感じる」には対象に対する感情を表現する場合と、個人の感覚を表現する場合があると論じる。

 「知る」「信じる」「感じる」は人間の精神活動の大半を占める。だが、この3つの違いを意識している人は少ないかもしれない。自分が「信じる」「感じる」ことは当然、他人も共有できると無邪気に思い込んでいたりする人は、共有できない他人の存在を理解できず、批判したりする。