望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

最期になって回心

 回心という言葉を「えしん」と読むと仏教用語になり、「改心し、仏道に帰依すること」になるが、「かいしん」と読むとキリスト教の用語になり、「従来の不信の態度を改めて、信仰者としての生活に入ること」を意味する。どちらも、単なる入信ではなく、それまでの罪深く誤った生き方を改めて信仰の道に入るという意味で使われる。

 宗教にはそれぞれ教えがあり、そうした教えに反して生きている人を「罪深く誤った生き方」などと決めつけたりする。それぞれの宗教が説く信仰者の人生モラルが、普遍的な価値観と一致する場合もあれば一致しない場合もあるから、理性的な判断を重視する人や束縛を嫌ったりする人は、宗教とは距離を置くしかない。

 回心という言葉は、宗教の側からすると人が正しい生き方に入ったということであろうが、宗教的な正しさが客観的にも正しいといえるかどうかは、まあ時と場合による。ある宗教が正しいとする考え方や行為が、他の宗教では誤りであると禁止されることも珍しくはなく、宗教的な正しさとは不安定な存在だ。だから、信じるしかない。

 人が回心する事情は様々だろうが、死の間際になってからの回心もあるという。病などで死が近くなってから、慌てて救いや心の平安を求めて宗教にすがりついたようにも見えるが、死を前にして真剣に考えた結果なのだろうから軽々に扱うことはできまい。

 ただ、キリスト教など一神教において人が死の間際に回心することは、ある種の合理的な判断でもある。その場合の回心とは、全能なる唯一の神の存在を信じ、その神による審判を受け入れることである。つまり、神が存在するのなら、背教者などのまま死ぬよりも、神の側についていたほうが有利だろう。

 一方で、神が存在せず、人は死ぬとやがて炭酸カルシウムになるだけなら、神を信じようと信じまいと死後の“行く末”に違いはない。死の間際に回心したところで、その人が失うものはなく、せいぜい「あんな理性的な人だったのに、最後に宗教へ行ってしまった」などの言葉を浴びるくらいだ。でも、もう何を言われても当人の知るところではない。

 死を目前にして、死への恐れとも相まって回心する人がいることは、宗教の側が勝利したということではない。死後の“行く末”を知っている人は現世の宗教に関係する人にも誰もいないのであるから、判定のしようがない。