望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

宗教という仮説

 仮説は、真理に到達するための1段階だという見方がある。一方、世界を合理的に説明するための推論が仮説であるとの考えがある。真理を確かめることが困難な状況は珍しくないが、ある仮説によって合理的な説明が可能であれば、その仮説を共有し、理論を発展させる。

 例えば、この宇宙が微小な点から始まり、ビッグバン以来、膨張を続けているという仮説は、実際の観測結果を合理的に説明するが、過去の宇宙の歴史を人は事実(真理)として知ったわけではない。科学は多くの、このような仮説で成り立っている。

 仮説が実際の観測結果を合理的に説明できなければ、新たな仮説が構築される。科学において仮説は客観的に検証されるものだが、仮説は科学者の占有物ではなく、一般の人々も頻繁に活用している。ただし、こちらの仮説は主観(思い込み)などで構築されたものが大半で、客観的な検証には耐えることができない。

 客観的な検証に耐えられない仮説でも、その仮説を人々が共有することによって大きな影響力を持つことがある。その代表が、宗教という仮説だ。神などの存在や啓示、死後の世界の存在、神などの裁きや救済などが真理として示されるが、それらが事実であるとの観測結果は皆無だ。

 宗教という仮説は、神などを信じる人々の主観によって構築され、体系化されてきた。客観的な検証を求めることは不信心の現れとされたであろうし、不合理ゆえに我信ずと理性による検証を否定し、神などの超越性を認めることで宗教という仮説は維持されてきた。神の超越性も仮説であるから、宗教という仮説は様々な仮説が組み合わされて構築されている。

 ある友人は宗教に関心を持って様々な宗教書を読んだが信仰には至らなかった。「そういう考えもあると読んでる分には興味深いが、真理だとは感じなかった」と友人、続けて「宗教の創世神話には恐竜が出てこない。数億年も栄えた生物について創世神話で語っていないのは、聖典を編纂した当時の人間の知見の範囲内で創世神話が創作されたことを示す」。

 科学において仮説は絶対ではないが、宗教という仮説は絶対的なものとされ、その絶対性を受け入れる人が信者になる。友人は宗教という仮説を受け入れることはできなかったが、科学の仮説は受け入れる。「論文を読んでも理解できないから科学の仮説も受け入れるしかないのだが、科学の仮説のほうが信用できそうだ」と友人。