望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

美少年ではない

  興福寺の阿修羅像は日本でもっとも人気がある仏像といわれる。2009年に東京国立博物館など各地で開催された特別展の入場者は200万人近くにもなり、美術ファンや仏像ファン以外にも、憂いをたたえた表情で美少年像にも見えるから、“イケメン”を見に女子中高生らも大勢訪れたという。新たなファンの開拓にも成功したようだ。

 こうした反応は目新しいものではない。阿修羅像は以前から仏像界のアイドルとも呼ばれていて、人気があった。イケメンなどという声を聞くと、阿修羅像は古代に実在した人物の肖像彫刻であるかのように錯覚しかねないが、もちろん実在した人間ではなく、神様。

 阿修羅とは、ヒンドゥー教から仏教に取り込まれた仏法の守護神で、戦いの神ともされる。戦いや争いが始終続いている修羅道に住むともいう。大元は古代ペルシアの神で、古代インドの神となり、さらに仏教に取り入れられたのだが、実際に阿修羅の姿を見た人間は、古代から現在まで、世界のどこにもいないだろう。信仰心が強ければ“見える”かもしれないが、それは実在する証明とはならない。

 だから、阿修羅像は製作者が、仏像製作の約束事などに従って創造した造形だ。実際に見たこともない神の姿を造形するためには、既に絵や像などが存在すれば参考にしただろうし、表情や姿勢の参考にするために人間をモデルに造形したかもしれない。

 そうして完成した阿修羅像が表現しているのは、阿修羅という神の「あり方」だろう。阿修羅を誰も見たことがないのだから、その姿や表情などの「個性」を表現できるはずがない。表現するのは、阿修羅という神の宗教的な意味づけであり、宗教的な解釈であろう。たまたま阿修羅像は憂いをたたえた美少年に似た造形となったが、表現しているのは神のイメージであり、美少年ではない。

 仏教でもキリスト教でも、神の姿は人間に似たイメージで表現される。なぜ、人間の姿に合わせて神の姿を造形するのか。言い換えるなら、神が人間と同じ姿をしなければならない必然性は、ない。全能であったり、何かの超能力めいた力を持つという神が、人間と同じ姿である必然性はない。目や鼻や口や耳がなくても神には不都合はないだろうし、腕や足がなくても、何かを動かしたり移動したり、神はできるはずだろう。

 見たことがない神の姿を、人間に似た姿で造形してきたことは、神の概念を理解しやすくして宗教を広めることに効果があっただろう。一方で、神の像を人間に似せたことで、神が人間世界の延長上に存在するものとの解釈を広めたかもしれない。そうした神もいるだろうが、人間に近すぎると神の全能性や絶対性は損なわれよう。偶像崇拝を禁じるイスラム教では、神の絶対性は保たれているように見える。