望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり





裸体の意味


 駅前や商店街、文化施設の前など街中で彫刻を見かけることは珍しくはない。川辺などのベンチに座っている人物像も結構ある。彫刻といっても様々で、抽象的な造形や裸婦像など“芸術”の香りふんぷんのものもあれば、デフォルメされた動物やら可愛い少女像、キャラクターなど親しみやすさを重視したものもある。



 だが、彫刻があれば文化の香りが間違いなく漂う……かどうかは別の問題で、ことに裸婦像などでは、じっと見ることはもちろん、カメラを向けることも、はばかられるような雰囲気がある。その造形の巧拙に関わらず、見る側が、裸体像に生身の人体を連想することが鑑賞より先立つからだろう。



 そうした気まずさは、裸婦像が表現として、現実の人体から“飛躍”しておらず、現実を引きずったままであることに由来するのか、人体造形を芸術表現の域にまで高めることができていないからなのか。街中にある裸婦像は、博物館で展示されている裸婦像に比べ、ぱっと見で「美しい」と感じさせるものが少ないように思うのは偏見かな。



 裸婦像など人間の裸体が表現の対象になったのは、そこに美があるからだろう。ただし、現実の人体を忠実に再現したとしても、美を表現できるかどうかは分からない。現実の人体をもとに美しい線や面で修正したとしても、それが美になるかどうかも分からない。広告やグラビアなどのモデル的な美にはなるだろうが。



 裸体の表現が、美の域に達するには何が必要か。おそらく、精神の高揚が裸体像からにじみ出ていることだろう。裸体自体に美が存在するのであれば、3Dプリンターで芸術作品を制作できよう。でも3Dプリンターでは、精神のあり様は造形できない。人間には精神があるからこそ人間であり、精神が表現されていてこそ裸体像はオブジェではなくなる。



 そうした裸体の美の代表はダヴィデ像だ。羽仁五郎氏は『ミケルアンジェロ』で、「裸体は、ルネサンスにおいて、特に、自由平等の表現である。それは、ルネサンスにおいて、封建的身分的支配に対し民衆が解放にむかって動いたとき、本来の姿にたちかえる人間の現実の解釈ということとむすびついている」と記した。



 裸体を隠す衣服は身分や階級を表すものである一方、その時代を反映し、時代に拘束されるものである。ダヴィデ像が旧約聖書に描かれた時代の衣装だったり、中世風だったり、現代風の衣装をまとった姿を想像するなら、裸体であったからこそダヴィデ像は、強敵に立ち向かう精神の象徴となり、永遠の存在になったことが理解できる。



 裸体像は直接的な人間存在を、見る側に突きつける。だから、精神の高揚も輝きも表現されていない裸体像は人体造形が投げ出されたまま存在しているようで、妙に気まずくなるだけだ。そんな彫刻に街中で出合うと、チラと横目で見て通り過ぎるしかない。