望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

存在は空であるか?

 キリスト教イスラム教などをはじめ世界の宗教の大半(アニミズムを含めて)は「存在は存在している」という点では一致しているのに、仏教だけは「存在は空」という特異な考え方をしている。もともと「私」という観念が希薄であった列島の日本人の意識の上に「存在は空」という仏教思想が張り付いてしまったから、日本人が世界の中で特異な存在になってしまっている……というのは評論家の山根二郎氏(『話の特集2005 創刊40周年記念』)。

 山根氏は、人の身体は不浄なもので「すべては虚無から生じ、すべては虚無に還る」とする仏教の“非人間性”を列挙し、「仏教を根源的に疑い、怪しみ、否定せんとする勇気のある者は今の日本にはどこにもいないのだ」と嘆き、仏教思想を批判せずに日本に自前の近代はあろうはずもなく、「日本人よ、仏教と格闘して近代をやり直せ」と結ぶ。

 「存在は空」であるという考え方は古代インドで一般的だったものであり、仏教は古代インド人の世界観(人生観)を基本として成り立った宗教だ。ゼロという概念を“発見”したのもインド人であることを考えると、ゼロという概念を人間にも当てはめて見ていたのではないか、などと想像したくなる。

 その仏教が日本人の精神形成に多大な影響を与えたことは間違いないが、山根氏の言うように、仏教と格闘して、その思想的影響下から脱しなければ日本人は近代人になれないのであれば、おそらく日本人は近代人にはなれまい。つまり日本人は仏教思想の影響下から容易には脱しきれまい。なぜか? それは(1)仏教をありがたがっても、仏教への批判的意識は持てない、(2)日常で刷り込まれている仏教の影響力について無自覚であるーからだ。

 「存在は空」であるならば、現世を享楽的に生きてもいいはずだが、仏教ではそこに仕掛けがあり、輪廻転生を持ち出す(これも古代インド人の発想)。キリスト教などでは死後の審判があるため現世では身を慎めとなるが、仏教では来世のため徳を積めとなる。宗教的発想というのは似てくるものらしい。

 「存在は空」であるのか、輪廻転生はあるのか、人の身体は不浄であるのか。坊さんの話をありがたがる前に、そこらを自分で考える必要がありそうだ。