望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

善悪の「基準」

 全能で唯一の神が存在し、最後の審判があるとした場合、その神は最後の審判で、どのような基準で人間を裁くのだろうか。その基準を人間は知ることができるのだろうか。



 全能の神が創造したという人間世界で、人間は相互に争い、時には殺し合う。大規模な自然災害でも、多くの人間が死ぬ。全能の神がいるなら、人間世界で起きている悲惨な死は、神の意思の現れか、または、神は人間世界や人間の死に無関心だと考えるしかない(無関心には、神は、人間世界のことは人間に任せているとの解釈も含む)。



 現実の人間世界において、人間が人間を裁く場合には、法や倫理観、習慣・習俗などが判断の基準とされるが、それらは社会や地域などにより相違があることが多い。社会や地域に関係なく、人間一般に通用する善悪の基準は曖昧だ。例えば、殺人を絶対悪として禁止する社会は多いが、特別な事情がある場合には容認する社会もある。

 神が最後の審判で人間を裁く時に、人間世界の様々な基準を適用するとしたなら、それは神の裁きではなく、人間世界の裁きでしかない。最後の審判が特別視されるのは、人間には窺い知ることができない神の意思が、そこで示されるからだろう。社会や地域により相違がある人間世界の基準ではなく、絶対的な何かが神の意思として示されなければならない。それでこそ全能で唯一の神といえる。

 こんなことを考えたのは、最後の審判で神はヒトラーに、どのような審判を下すのだろうかと疑問になったからだ。ヒトラーを持ち出したのは、最悪の罪を犯した人間と想定してのこと。だが、その罪は人間世界での罪であって、神が裁く場合には、罪の概念には神の基準が適用されるはずだ。人間世界の基準で裁くなら、人間世界での大量殺人に「無関心」な神の責任も問われかねない。



 最後の審判で神が裁く人間の罪とは何だろうか。神を信じなかったり、異なる宗教を信じたりすることは罪にはならないだろう。人間をも創造した全能の神が、自らへの信仰心を人間に植え込んでおかずに、様々な人間の口を通して「神を信じよ」などと熱心に説くという状況は、全能の神が人間を創造する時にヘマをしたという証しになるからだ。



 最後の審判で神はヒトラーを「有罪」にするのか「無罪」にするのか。人間世界の基準で裁くだけなら、わざわざ神に裁いてもらう必要はない。結論は「有罪」と出ている。かといって、人間世界でのみ生きる人間が犯した罪を、人間世界での基準ではなく、未知の神の基準で裁かれたとするなら、納得できない人間も出て来よう。



 神が裁く罪とは何か、人間には窺い知ることができないままで、最後の審判に人間がかけられるというのは過酷だ。善悪の神の基準が分からないままでは、人間は「善人」になる努力もできないのだから。