望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

事実に対する誠実さ

 2015年に米国などの日本研究者187人が発表した「日本の歴史家を支持する声明」の目的は何だったのか。声明は、第二次大戦後の日本の歩みを肯定的に評価しながら、世界から祝福を受けるにあたっては障害となるものが歴史解釈の問題で、最も深刻な問題の一つが「慰安婦」制度の問題だとし、慎重な言い回しながら日本政府に「言葉と行動において、過去の植民地支配と戦時における侵略の問題に立ち向かい、その指導力を見せる」ことを促す。

 声明作成のまとめ役となったジョージタウン大のジョルダン・サンド教授はインタビューで、日本の「憂慮すべき風潮に対する意見」だとし、「ジャーナリストに対する脅迫が起きている」ことや「日本にいる研究仲間は政府の財政援助を受けるために、ある種の問題を扱えない」ことなどを見て、「仲間として意見を述べるときが来た」と判断したそうだ。

 それで声明の中ほどで「私たちは歴史研究の自由を守ります。そして、すべての国の政府がそれを尊重するよう呼びかけます」としたのだろう。歴史研究の自由を守るとか、それを政府が尊重するように求めるのは当然だ。だが、「慰安婦」問題においては、歴史研究の自由が失われ始めたのか、事実関係の見直しが始まったのか、どちらなのだろうか。

 タイムマシンがないため研究者は事実関係を直接検証できず、歴史研究は文献や関係者の証言などに頼るしかない。定説や歴史的事実だとされているものは、新たな史料や証言などにより新事実が判明すれば書き換えられる。そうした誠実さが歴史研究を支え、また、社会から信頼される条件ともなる。

 声明の重点は「慰安婦」制度の問題だ。「規模の大きさと、軍隊による組織的な管理が行われたという点において、そして日本の植民地と占領地から、貧しく弱い立場にいた若い女性を搾取したという点において、特筆すべき」とする一方、軍関係資料のかなりの部分は破棄されたとし、被害者の証言の信憑性について留保しつつも「証言は全体として心に訴える」とする。歴史研究において“心”はどう客観化できるのか。

 さらに「永久に正確な数字が確定されることはないでしょう」と政治的対立に巻き込まれないよう研究者としての逃げ道を確保してから、「日本帝国とその戦場となった地域において、女性たちがその尊厳を奪われたという歴史の事実を変えることはできません」と断ずる。正確な数字に少しでも近づくように努力することが研究者としての誠実さの一つだろうに。

 日本軍の直接関与について異論があることは認めつつ、「大勢の女性が自己の意思に反して拘束され、恐ろしい暴力にさらされたことは、既に資料と証言が明らかにしている」と論をすり替え、「限定された資料にこだわることは、被害者が被った残忍な行為から目を背け、彼女たちを搾取した非人道的制度を取り巻く、より広い文脈を無視することにほかなりません」とする。互いに立場によって資料を使い分ける?

 朝日新聞が大誤報を認めて以来、「慰安婦」制度問題で歴史的に事実と見なされるのは何なのかが揺らいでいる。学問的に検証された事実を提示することが、政治的な立場にとらわれない(はずの)歴史学者の役割だろう。米などの歴史学者が為すべきことは、日本に向って歴史研究の自由を訴えることではなく、「慰安婦」制度について、学問的に信じるに値する事実だけを抽出することだ。朝日や吉田証言など信憑性が疑われるもの、根拠が怪しいものを全て除いて、新たに検証し直すことが誠実さの証しともなる。