望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

自由に歌う

 歌は自由なものである。どのようなメロディで歌おうと、どのような歌詞で歌おうと、どのようなリズムで歌おうと個人の自由である。鼻歌ならば誰でも勝手に歌うのが当然だろうが、流行歌も自由に歌っていいいとみなす人は少ない。だが、流行歌だって、歌う人が自由に歌っていい。

 流行歌が、決められた歌詞を決められたメロディで歌わなければならないと人々が思い込むのは、与えられた歌だからだ。与えられた歌だって、歌う個人が歌詞もメロディも自由に歌ってもいいのだが、決められた歌詞を決められたメロディで歌うカラオケの影響なのか、歌う人は「オリジナル」を尊重する。

 決められた歌詞を決められたメロディで歌うことに人々が疑問を持たないのは、カラオケで採点されるので譜面通りに正確に歌うことが求められ、さらには譜面通りに歌うように指導される学校教育の影響も大きいだろう。決められた歌詞を決められたメロディで歌う楽しさは否定しないが、それが歌う楽しさの全てではない。

 与えられた歌とは商業作品であり、著作権で守られる。そうした歌が大量に流通する(=流行する)ようになったため、メロディーも歌詞も決められた通りに歌うことが当然視される。作詞家や作曲者から与えられた作品を歌うプロ歌手ならば必ず歌詞もメロディも「正しく」歌わなければならないが、その姿が人々に影響しているのかもしれない。

 プロ歌手でも、自由に歌詞やメロディを創作しつつ歌う人がいる。自分で作詞作曲する人がステージのたびに自由に歌詞を変え、メロディなども変えたりする。感じたこと思ったこと考えたことなどを即興で自由に表現することがプロでも許容されるのは、自分で著作権を持つからだ。歌を自由に歌うということは、創造しながら歌うことでもある。

 歌が商業作品となる以前、たとえば民謡などは各地で人々が自由に歌っていただろう。歌詞もメロディも様々で、歌うたびに違っていただろうし、猥歌も多くあっただろう。それが、研究者に収集され、譜面に記録される過程で、自由で多彩だった歌が研究者の判断で整序され、固定化された。その過程で、自由に多彩に、時には猥雑に人々が歌って楽しんでいた歌が“漂白”された。固定化されることで、民謡は自由な歌であることを封印された。

 歌は自由なものである。現在は商業作品の流行歌に覆われた状況だが、感じたこと思ったこと考えたことなどを自由に歌う人々が増えれば、歌の状況は変わる。大量に売り出され、すぐに忘れられていく商業作品の歌よりも、自由に歌うことを人々が取り戻せば、自由に生きることの意味を実感する人々が増えるだろう。