望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

意地の張り合い

 政府関係者が記者会見等で登壇する時に「日の丸」に向かって一礼する姿を見る。いつ頃から始まったのかは定かではないが、以前には見かけなかった気がする。米国など諸外国でも政府関係者が記者会見などの時に、いちいち自国国旗に敬意を表するものなのか知らないが、そう杓子定規にはやっていない気がする。



 「君が代」にも杓子定規な動きがあり、歌っているかどうかを口の開け方でチェックしていた連中がいて話題になったことがある。歌うことを強制しなければならない歌とは、みじめでメンドーな存在だ。そのうちに、「君が代」を日本国民は声を出して歌わなければならないと強制され、次には「日の丸」を見かけたら日本国民は一礼すべしと強制されるようになる?



 強制する側の反対側にいるのは否定派だろうか。「日の丸」「君が代」といえば日本では、太平洋戦争(大東亜戦争)に突入した軍国主義と関連させてとらえる人たちがいる。軍国主義やアジア侵略の象徴であるように言い、「日の丸」「君が代」を否定することも反軍国主義、反侵略の行為ででもあるかのように振る舞ったりする。



 「日の丸」「君が代」を否定することと、軍国主義や侵略を否定することはイコールで結ばれるものではない。軍国主義や侵略に反対しながら「君が代」を歌うこともできるし、逆も可能だ。「日の丸」「君が代」を単なる旗、歌として見ると、国旗国歌の強制の是非が根本的問題であることが分かる。



 また、戦後の保守政治による国家イメージが「日の丸」「君が代」に色濃く、戦後の大衆運動の中で反政府・反体制の分かりやすい象徴として「日の丸」「君が代」反対が位置づけられ、それが現在も尾を引いていると言う人がいる。強制騒動が続いているのは、国家イメージの混乱が広がっているからだろう。



 もしも、戦後の大衆運動が「日の丸」「君が代」を受容していたなら、どんな歴史になっていただろうかと夢想することがある。安保反対や全学連のデモの中に「日の丸」があったとしたら、「日の丸」は日本の民主や自由を象徴するものとして受け止められるようになったかもしれない。国旗の意味を大衆が規定し直し、自分たちの手で「日の丸」を再生させる可能性があった。



 記者会見等での「日の丸」へのギクシャクとした一礼や、「君が代」を歌う口のチェックなどが示すものは、民主主義的にも自由主義的にも日本という国家の理念を定められず、ただ漠然とした歴史にすがるしかないという国家イメージの貧困さだ。それは同時に、強制する側と否定する側の思想の硬直度合い(意地の張り合い?)を示すものでもある。