望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

エビデンス

 犯罪行為が行われている状況を目撃した人が、後に、見た状況を話すことは捜査や裁判で重要な証拠として扱われる。目撃したのが1人だけだったとしても、証言の信憑性が疑われるわけではなく、むしろ、たった1人の目撃者としてその証言が重要視され、犯罪立証の決め手になったりもする。

 一方、科学において1人だけの証言は、そのままでは事実とはみなされない。複数の研究者が観測や実験を行い、同じ結果が得られてから初めて最初の人の証言が事実であるとされる。例えば、STAP細胞ができたとの実験結果が発表されたが、世界で追試が行われたものの誰もSTAP細胞をつくることはできず、批判され、STAP細胞ができたとの論文は撤回された。

 論文に記載されていない何かの条件が作用してSTAP細胞が偶然にできた可能性はあるが、他の人が再確認できない事象は科学的には事実とされない。共有できる事象が科学的な事実であり、たった1人だけが確認して他の誰も確認できない事象は科学的には事実と認められない。科学的な事実とは、主観が完全に排除されて、客観性だけで構成される。

 犯罪の目撃証言はたった1人のものであっても信用され、実験結果や観察結果など科学的な事象は1人の証言だけでは信用されず、複数が同じ結果を共有して初めて事実とされる。犯罪の目撃はただ1回のものであるが、科学的な事実は再現可能であったり再確認可能であることが要求される。

 英語のエビデンス(evidence)は英和辞書によると、①信ずべき根拠、証拠、(法律)証拠物件、証言②しるし、兆候、形跡、痕跡。だから、目撃証言も科学的な事実もエビデンスなのだが、日本ではエビデンスは科学的な根拠・証拠の意味で使用される傾向がある。これを利用して、目撃証言と同様な他者に確認されない事象をエビデンスとして、科学的な装いをさせる言い方がある。

 「GoToトラベル」事業が感染を拡大したとの野党の追及に菅首相は「GoToトラベルが感染拡大の主要な原因であるとのエビデンスは、現在のところ存在しない」とした。確かにGo to事業と感染拡大を直接に関連させるデータを集めて分析し、立証するのは簡単ではなく、困難と言ってもいい。しかし、Go to事業と感染拡大には相関性が感じられるのも事実で、それは医師などからも指摘されている。

 自分に都合の悪い事実を嘘だとするのが政治家だ。政治家がエビデンスと言い始めたのは、エビデンスなるものが政治的な言語に変化したからだろう。自説に都合がいい科学者の言説を政治家が利用する話法だ。科学者の主張でも、検証されずにいるものは仮説に過ぎない。仮説はエビデンスにはなり得ない、ただの一つの主張に過ぎない。