望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり





仇討ち

 仇討ちとは大辞林によると「自分の主君・父などを殺害した者を仕返しに殺すこと。武家時代に儒教的・武士道的観念から盛んに行われたが、1873年(明治6年)に太政官布告により禁止された」。武士の仇討ちは主君の許可を受けてから、敵を捜し出して討つもので、たんなる復讐とは異なる。



 時代劇映画や歌舞伎などで仇討ちを扱った作品は多く、赤穂浪士の討ち入りも仇討ちだが、これは公的な許可を得たものではなかったため、大石内蔵助らは切腹させられた。が、その“忠義”は広く賞賛され、現代でも歌舞伎の人気演目だ。もっとも、吉良上野介浅野内匠頭を殺したわけではないので、吉良を討つのが仇討ちなのか疑問だが。



 肉親などを殺した相手に、残された家族などが復讐・報復するという行為は、過去の歴史において世界でも珍しくはなかったという。法制度が未整備であったり、法の執行に多くを望むことができないような国では現在でも私的報復が行われているのではないかと思うが、具体的な資料は見つからない。とはいえ、そうした私的な復讐・報復は許されない行為であると現在の世界では見なされるだろう。



 さて、法制度が整備された社会では許されない仇討ち(敵討ち)について、1)江戸時代に日本では公認された制度であったと指摘すること、2)仇討ちが行われた状況や心情を理解できると言うこと、3)仇討ちは現在でもやるべきだと言うこと、この3つは全く別である。



 1)は歴史的事実を述べているのあり、2)は歴史的事実に対する共感を述べ、3)は現代社会の法制度の変更を主張している。文章であったなら、これらを読み分けることはそう難しいことではないだろうが、話し言葉となると混乱も起きうる。話し手が歴史的事実を述べているつもりであっても、自分の思いや感情が滲み込んだりすると、それが聞き手にも伝わる。



 意図的に行う人もいる。仇討ちの是非が現代社会において敏感な問題であったなら、江戸時代の当時には存在したと歴史的事実を述べながら、そこに肯定的解釈を紛れ込ませて、現代における制度変更へ賛同者を増やすことを狙う。発言を批判されたなら、歴史的事実を述べただけだと反論する。厄介なのは、論理的に話すことができない人だ。歴史的事実と解釈、感情を混ぜて発言したりする。



 聞き手の側が、聞いた発言内容を混ぜ合わせてしまうこともある。敏感な問題であれば“問題発言”の一丁上がりになったりする。こちらも意図的に行う人がいるので、その場で聞いていなかった人には全体が見えず、厄介だ。