望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

責任を負う不条理


 2014年に朝日新聞慰安婦報道をめぐり、誤報があったことと、それを長年放置したままであったことを認めた。第三者委員会の初会合では、1)慰安婦に関する過去の記事の作成、今回の記事取り消しに至る経緯、2)今年8月5、6日付朝刊に掲載した特集紙面「慰安婦問題を考える」の評価など、3)国際社会に対する慰安婦報道の影響、を検証することを決めた。



 第三者委員会の審議は非公開だが、事実関係の検証を進めるため、委員会で関係者の聞き取りを実施するとした。その対象は「記事を書いた記者」のほか、社内外、外国も視野に入れて検討するそうだ。

 それにしても現在、朝日新聞社で働く記者たちは、先輩の不始末と、それを長年“放置”してきた先輩諸氏の怠慢に腹が立つだろうな。批判の矛先は現在の朝日に向かっているが、38年前に現役記者だったり、紙面編集に関わった先輩連中は大半がリタイアしているだろう。現役は「誤報は俺たちが紙面化したのじゃないのに」と思うだろうが、朝日という看板で商売しているのだから「連帯責任」だな。



 大所帯の朝日だから、慰安婦関連の報道に関係した記者よりも、関係がない記者のほうが過去も現在も遥かに多いだろう。そんな彼らに、どういう責任があるのだろうか。それは、1)事実に基づいている、2)公平な視点を保っている、3)特定の方向づけをした報道は行っていない等を、日々の紙面で示すこと。それ以外に、現在、朝日に向けられている疑念に現役の記者らが応える方法はない。



 自分らが直接関わっていないことの責任を問われるというのは、珍しいことではない。例えば、戦前の日本人の行為について、戦後生まれの日本人が責任を問われるという構図がある。戦後の日本人は「悪うございました」と頭を下げてきたが、冷静に考えると、生まれてもいない過去のことについて、責任を負うということは不条理である。



 戦前の日本人の行為を、戦後生まれの日本人が正そうとしても、生まれてもいないし、タイムマシンも存在しないのだから、不可能だ。自分が影響を及ぼすことができない決定・行為について、その人には責任がない。米政府の決定について、日本人には責任がないことと同じだ。だから、戦後生まれの日本人は、戦前の日本人の行為について、直接の責任はない。



 直接の責任はないが、全くの無関係ではない。持続している国家や企業は、人は入れ替わりながら、同じ「看板」を掲げる。その看板で過去に行ったこと、その経緯、責任の所在などを認識し、同じ失敗を繰り返さないようにする責任はある。