望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

読者からの信頼への裏切り

 朝日新聞は2014年、(1)吉田清治氏の関連記事について「虚偽の証言だと判断」して記事を取り消し、(2)女子挺身隊と慰安婦を誤用していた、ことを認めた。32年も経って誤報を認めたわけだが、事実関係を間違えている記事を32年も“放置”していたことの説明はなかった。



 慰安婦絡みなので他マスコミからの執拗な批判がいつまでも続き、そのため朝日は検証を余儀なくされ、「訂正」に至ったという印象だ。だから、政治的な問題とはならない他の記事なら、事実関係を誤って報じていても執拗な批判は少ないだろうから、放置したままなのではないかとの疑念も生じる。「そんなことはない」のだろうが、32年経っての訂正に関する朝日の説明が不足しているので、記事全般に対する信頼性を損ねたことは確かだ。



 朝日は日本を代表する新聞だと欧米のマスコミからは見られているといい、日本国内でも朝日をリーディングペーパーと見なす人は珍しくない。宅配で長年読んでいた個人的経験からも、内容が充実した読み応えがある新聞であるといえる。加藤周一氏の連載コラムが載らなくなってからは購読をやめたのだが、朝日が他の新聞よりはマシだとの印象は持っている。



 だからこそ、朝日が説明責任を十分に果たしていないことを危惧する。世の中に事件、事故は満ちあふれ、多くの腐敗も潜んでいるだろう。新聞が報じるべきことは多く、締切りまでの時間は短い。そんな中で紙面をつくるのだから、記者が間違うこともあろうし、編集スタッフが見逃すこともあろう。だから、「誤報」の速やかな訂正が不可欠で、それが新聞への信頼を支える。



 誤報が新聞社により訂正されないと読者は、どれが誤報の記事で、どれが誤報でないのか区別がつかない。新聞社は「全ての記事は正しく、誤報ではない」との建前なのだろうが、そんな建前を信じる人はいない。32年経ってからの「記事取り消し」は、事実確認をおろそかにしていたという新聞社にとって重大な瑕疵であり、読者からの信頼に対する裏切りである。



 今回の朝日「誤報」騒ぎでは、日本国内で慰安婦問題を提起し続けていた人達からの反応が鈍い。政治的な運動は、事実関係の客観的な正しさ云々より、政治的な効果を重視するものであるから、事実関係がどうであろうと大した問題ではないのかもしれない。だが、大騒ぎするが、不都合なことには知らんぷりする連中だとの印象にもなる。

 

「批判する時は元気だけど、説明責任を求められると黙りがち」というのは、当事者能力の欠如を示すものだ。都合が悪いと黙るという行動は、みじめで弱体化したと傍からは見え、そうした人間に対して新聞記者が容赦なく鋭い質問を浴びせたりして「真相」を追及することはよくある……朝日が黙ったままでは、新聞不信につながりかねず、権力にとっては好都合だろう。