望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

自由な言論・自由な表現

 ウェブサイトに日本語で書いた記事が朴槿恵大統領に対する名誉毀損にあたるとして2014年、韓国の検察当局が産経新聞前ソウル支局長を起訴した。日本では、言論の自由に対する侵害であると“立場”を超えて批判が広まったが、中には、大統領の「7時間の空白疑惑」に関する噂を扱った当該記事には感心しないが……というような但し書きを加えているものもあった。



 新聞記事は、真偽のはっきりしない噂などには触れず、ウラが取れた確かな事実だけを取り上げるべきだというのは正しい見解だろう。噂話なら週刊誌に任せておけばいい。でも、誤報を長年放置していたことを、やっと数年前に認めた新聞社もあるのだから、新聞記事が確かな事実だけを報じているともいえまい。



 ところで、新聞はこれまで、週刊誌などが名誉毀損等で訴えられ、捜査当局が動いても、沈黙したり、時には社説で「他人のプライバシーを売物にするのはもってのほか」などと週刊誌をたたいた。ジャーナリズムとして新聞は週刊誌などより「格が上」との意識があったようだが、今回の産経の前ソウル支局長の記事は、噂があるという事実を伝えたつもりが、噂を広めることになった。もう新聞は週刊誌などを見下すことは難しい。



 ウラが取れた確かな事実だけを記事にしているという新聞の虚構が露になったのだから一歩前進だ。さらに前進するには、“高尚”な新聞にだけ言論の自由表現の自由があるのではなく、全ての媒体にも言論の自由表現の自由があることを認識することが必要だ。それは、乱暴な言い方になるが、ゴミ記事・クソ記事にも言論の自由はあり、表現の自由はあるということ。



 これまで、ゴミ記事をゴミだからとして批判してきたのが新聞など“高尚”なジャーナリズムだった。だから噂を扱った産経の記事を無条件で擁護できず、但し書きを付け加えるような擁護の仕方になる。ゴミ記事であっても新聞記事だし、新聞記者が名誉毀損で起訴されたのだから擁護しなければならないとの義務感だけでは、言論の自由表現の自由を闘い守ることはできまい。



 自由な言論・自由な表現を続けて圧力と闘う中からしか、言論の自由表現の自由は維持できない。それは、新聞などの“高尚”なジャーナリズムだけに託されたものではなく、週刊誌など全ての媒体に託されたものであり、どんなゴミ記事・クソ記事にも自由な言論・自由な表現は託されている。圧力と闘う覚悟を持っていれば、余計な但し書きを付け加えずに、言論の自由表現の自由を主張できるだろう。



「いかなる態様であっても国家権力による言論の統制を許してはならない。これが大原則である」が、「“自由な言論”を行使する以上、憎まれ抑圧され疎まれるのは、ものを破壊し人を傷つければブタ箱にほうりこまれるのと等しく、当然のことではないか」。だから、「人間が制度を支配するかぎり、どこに“言論の自由”など存在しよう。しかし、いかなる時代・社会・国家においても、断乎として“自由な言論”はある。とうぜんそれを行使する者の勇気と、犠牲の上にである」。



「名誉とは何か、姿なく形なく境もなく、つまるところは『感情』である。個的なものであってしかも、多くは虚名にすぎない。もし、明らかに侵害行為が立証されて、実害をこうむったことが確認された場合においても、金銭で購われる筋あいのものであり民事訴訟で充分、刑事制裁をくわえるまでの犯罪ではないのである」……これらは、活字においても活字外においても闘い続けた竹中労さんの言葉である(『ルポライター事始』から=ちくま文庫)。