望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

決められない政治(続)

 議会で与党と野党が議論するものの、一致点を見いだす努力を放棄し、妥協せず、激しく対立する状況が続くことは珍しくはない。野党の政権チェック機能がよく働いていると見ることもできるが、野党が何にでも反対しているようにも見える。与野党の主張を検証して主権者は次の選挙のときの判断材料にするのがいいのだが、次から次と対立が続くと、つきあってもいられなくなる。

 与野党の激しい対立の行き着く先は、多数決で決めることになる。日本のように政党が党議拘束を行うなら、最初から結果は明らかであり、野党が存在感を目立たせるためには、審議で非妥協的な激しい言葉で政府批判することが有効だろう。与党は、予定されている多数決で決着するのだから、議会での議論で妥協点を見いだし修正などを行って採決への協力を求める必要は感じまい。

 いわゆる「決められない政治」とは、議会で行われる討論が、一致点を見いだすための議論ではなく、それぞれの政党の存在感をアピールするための議論になっている状況だ。主権者が選んだ議員たちが、最後は多数決で決めているのだから、「決められない政治」は民主主義に反するものではない。しかし、民主主義がよく機能しているとも見えないから、不信感は高まる。

 「決められない政治」は、民主主義の不在を意味するのではない。民主主義は機能しているが、議会の機能が低下している状態だ。機能が低下した議会は軽んじられようが、議員になること(選挙で選ばれること)の価値が低下していないとすれば、議会は次の選挙のための存在感アピールの場に変質する。

 選挙で当選した人が議員となり、議会を形成するのだが、議員にとってはおそらく自分が当選することのほうが議会よりも価値がある。議会の価値は社会的なものだが、議員でいることが自分の価値を高める。つまり、一般には「議会>選挙」だが、議員にとっては「議会<選挙」だから、議会が選挙のために存在感アピールに使われる。

 社会の成熟とともに価値観は多様化する。そうした多様な価値観が選挙結果に反映すれば、議会でも多様な主張が現れ対立が激しくなろうから、「決められない政治」は社会の成熟を反映したものでもあろう。そこに議員を続けるために励む議員が加わる。「決められない政治」は日本だけではなく、米国など民主主義が定着した各国に見られる現象だ。

 選挙で選ばれることを最優先する議員たちによって演じられる「決められない政治」は、ポピュリズムとも相性が良さそうだ。票を獲得するためには手段を選ばない人達にとって、存在感をアピールすることが第一であろうから、議会も道具であり、ポピュリズムも道具になる。