望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

緩慢な自殺

 こんなコラムを2000年に書いていました。

 少年の凶悪犯罪が続発している。少年の凶悪事件といっても豊川市の殺人やバスジャックと、愛知での5000万円強奪や埼玉でのリンチ殺人、女性の耳切り落としを同列に論じることはできまい。前者は誰でも被害者に成り得た無差別殺人だが、後者では、被害者は「選ばれた」、別の言い方をすると目を付けられたのである。

 後者では、加害者が自らの欲望を満たすために犯罪行為が行われた。欲望とは金銭欲などとともに、ムカツクから**を痛めつけるといったことを含む。つまり、これらはいつの時代でも起こる犯罪であり、人間が社会生活をする限り、なくならないだろう。こうした犯罪の防止策を考えるなら、加害者の「異常性」を探すのではなく、加害者を取り巻く人間関係の有り様を調べることがスタート点となろう。また、少年法などを厳しくして効果があるとすれば後者のケースだろう。

 前者の場合は、いじめなど様々な要因が積み重ねられて犯行に至ったと見ることもできようが、むしろ、犯人が自己を含め全てに否定的になった結果の緩慢な自殺のようにも見える。社会での自分の居場所が見えなくなって(或いは、居場所がないと思って)、家出をすることもできず(家出もせず)、自暴自棄となって行った行為であるようにも見える。少年法を厳しくしても前者のような事件は、減りもしなければ増えもしないだろう。

 家出して都会のどこかに居場所を見つけた連中はともかく、家庭にも学校にも居場所がないと感じている少年らは、家庭や学校に背を向けることで自分を護ろうと自分の世界を作り、そこでの妄想を現実社会に投げ返す。見ず知らずの他人に惨いことができたのも、他者の痛みへの想像力の欠如ではなく、彼らにとっては自分があるだけで、他者はまだ存在していなかったからだ。