望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

市中引き回し

 「市中引き回し」を喜ぶ精神とは何だろうか。昔は刑罰として、市中引き回しのうえ打ち首あるいは磔ということになり、当人および“観衆”に“悪行(秩序紊乱)の報い”を思い知らせるという意味があるのだろうが、さて、現代においての市中引き回しとは、さらし者にすることの意味であり、それこそ興味本位の大衆の感情におもねった発想から生まれてきたものでしかない。

 自分の子が殺人をしたからといって親も連帯責任を負わねばならないことはない。親子であろうと別人格である。落語の言い回しを借りると、「子がイモを食ったら、親が屁をするのか?」というところ。日本には「親の顔を見てみたい」という言い回しがあり、特に未成年者が残虐な犯罪を犯した時には、どういう育て方をしたんだろうとの興味から家庭環境が暴かれ、その家庭のどこか特異的な部分に注目し、「育ちが悪いから、あんなことが起きたのだ」と理解できた気がして、いつの間にか“観衆”の興味は次の事件に移る。

 鵜の目鷹の目で見ると、どんな家庭にもどこかにおかしなところはある。例えば、大きくなっても母親と手をつないで歩いていたというようなことでも、事件が起こった後では特別なことのようにはやし立てられる。自分の子供の24時間の行動を把握している親などいないし、子供は親の目から隠れて行動する部分を増やしていく。それは自然なことだ。

 仮に親を市中引き回しにしたなら、未成年者の残虐な犯罪は減るのか。親から子への管理は強まろうが、それを抑圧と感じる子が増えて、想像もつかない形で反動がどこかに出てくるだろう。それを受けて“観衆”は親の顔を見たがり、政治家はまた、親を市中引き回しにしたがる。

 おそらく数年置きに同じようなことが繰り返され続ける。管理を強めることによって防ぐことができる部分は犯罪においてはごく一部だろう。