望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

善悪で見る

 高度な知能を持つ地球外生命が大挙して地球に押し寄せてきて、地球を乗っ取るために人類を絶滅させようと襲い始め、さあ大変、圧倒的な攻撃力の差で人類の危機だ。そんな時に、戦いに巻き込まれていた人物が地球外生命の弱点を偶然知って、反撃を開始し、地球外生命を撃退して地球を救うというのはハリウッド映画などに珍しくないストーリーだ。

 こうしたストーリーは、①主人公を疑いがないヒーローに仕立てることができる、②地球外生命だから主人公らが残虐に殺害(破壊?)しても観客は同情を抱かない、③最後には危機を脱するというストーリーを予感しているだろうから観客は安心してハラハラドキドキを楽しむことができる、などの娯楽作品に仕立てやすい要素を備えている。

 一方、地球外生命は①圧倒的に強い、②主人公や人類を窮地に追い込む、③主人公や人類に決定的なダメージは与えない、などと設定される。圧倒的に強く描かれなければならないのは、観客をハラハラドキドキさせるとともに、最後に主人公たちが勝利する姿を見て観客が喝采するためだ。でも、圧倒的に強かったはずがボロ負けする地球外生命は、哀れさを誘う余韻を残したりする。

 地球を破壊から救う人物は間違いなく大ヒーローで、善悪で分けるなら善の側になるだろう。地球外生命は無条件で悪との設定になり、善が悪を打ち倒すのだから観客の大方は納得する。善とは何か、悪とは何かと考え始めると、たちまち意見は千々に分かれるだろうから、そんな疑問を観客に持たせないために、地球外生命は次から次と無慈悲に人間を攻撃する。

 現実世界では、無条件の善も無条件の悪も存在しないだろう。誰もが善の部分と悪の部分を有するので、時には善となり、時には悪となるのが人間。悪玉だと見られていた人物に意外な穏やかな人間性が垣間見えたりすると、ただ憎むことが難しくなったりする。

 だが、人間を無条件の悪と設定する映画は昔からあった。悪玉は世界支配を目論む独裁者や冷酷で残虐な犯罪者などだが、最近ではテロリスト集団が冷酷な犯罪者として描かれたりする。人間がテロリストになるには相応の理由があるはずだが、そこに目を向けると無条件の悪との設定がぐらつき始めるから映画では触れられない。

 映画の世界では登場人物の善悪を最初から決めることがストーリー展開に便利だろうが、現実世界でも最初から善悪を決めつけて人を見ていることは実は珍しくない。そうした決めつけで見えなくなっているものがあることを認識していない人には、現実世界も映画のような単純な善悪の闘いと見えているのかもしれない。