望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

死刑廃止について

 死刑廃止宣言に見ることができる日弁連の主張は理解できるものではあるが、ヒューマニズムや理想論に傾きすぎている気配もある。「生まれながらの犯罪者はおらず」「多くは、家庭、経済、教育、地域等における様々な環境や差別が一因となって犯罪に至っている」から「罪を悔い、変わり得る存在」とするのだが、理想というものはしばしば現実に裏切られる。

 宅間守という男がいた。家族に暴力を振るう父親、家事や育児が苦手の母親の家庭で育ち、子供の頃から問題行動が多かったといわれ、十数件の前科を重ね、37歳の時(2001年)に大阪で小学校に侵入し、包丁で1、2年生8人を殺害、児童13人と教諭2人を負傷させた。初公判では謝罪の言葉を口にしたが、その後は暴言を隠さなくなり、「時間がもう少しあれば、もっと殺せた」など非道な発言を繰り返したと伝えられる。

 一審で死刑判決が下され、弁護団は控訴したが宅間は控訴を取り下げ、死刑判決確定後には、早く死刑にするようにと要求した。死刑確定の約1年後の2004年に、異例の早さで死刑が執行された。宅間守は死刑判決確定後に文通で知り合った死刑廃止運動の女性と結婚、死刑執行前に妻に向け「ありがとう」の言葉を残したが、被害者遺族に対する謝罪の言葉はなかったという。

 宅間守の家庭環境や生い立ちなどは恵まれたものではなかったようで、それが彼の「荒んだ」生き方につながったと解釈でき、同情すべき余地はある。とはいえ、無差別に小学生を刺殺した宅間守の犯罪は残忍すぎて、同情すべき点はない。宅間守の存在は、死刑制度廃止の主張を納得させるものなのか、それとも死刑制度の存続を納得させるものなのか。

 宅間守が、内心では改悛したのに改悛しないように見せていたのか改悛しなかったのか、傍からは判らない。だが、宅間守が残したのは、改悛する様子を見せず、確信犯であり続けた凶悪犯の姿である。「罪を悔やまず、変わることをしない」凶悪犯を、日弁連の死刑制度廃止の主張は想定していないように見える。

 改悛せず、被害者遺族に謝罪もしない凶悪犯について、それでもなお死刑にすべきでないと主張するには、どんな人間であろうと殺してはならないという崇高なヒューマニズムを掲げなくてはならないだろう。だが、崇高なヒューマニズムが現実的に説得力を持つとは限らず、むしろ、現実離れの理想論だと片付けられて終わることも珍しくない。

 「生まれながらの犯罪者はおらず」、どんな凶悪犯も必ず改悛するのなら話は簡単で、死刑にせずに立ち直りを期待すると同時に、被害者遺族への公的支援を拡充することが社会的な安定のために望ましいだろう。だが、人間の本質的な姿は様々だろうから、かくあってほしいという理想像で強弁することはできない。改悛しない凶悪犯を、この社会は「許す」ことができるのか、そこが問われている。