100年前の1922年。10月に日本はようやく、シベリアからの撤兵を完了した。1918年8月から7万人以上を派遣し、各国が撤兵した後も駐留していたが、具体的な成果がなく、3千人以上が戦死したシベリア出兵に国内世論は批判的だった。日本軍は「無駄で無益な戦争」を厳しく検証することもなく、戦前はその研究がタブー視されたという。
ロシア革命への干渉を狙い米国と英仏もシベリア出兵を行ったが、反革命軍の敗退などで1920年6月までに撤兵した。だが満州やシベリアの支配を狙った日本は出兵を継続して占領地を拡大したものの、極寒の地でロシアのパルチザン相手に苦戦し、多くの日本兵と居留民が殺害された尼港事件なども起こった。
3月には京都で全国水平社の創立大会が開催され、全国から3千人が集まった。結びの言葉「人の世に熱あれ、人間に光あれ」で知られる宣言を採択し、差別に対して「救ってもらう」のではなく、差別される人々が結集・団結し、自分達の行動で差別の解消を目指すことを打ち出した。
4月には浦賀水道付近を震源とするM6.8の地震があり、東京と神奈川で最大震度5を観測した(翌23年9月にM7.9の関東大震災が発生した)。7月には、有島武郎が北海道・狩太農場400町歩を小作人に無償提供した。また、この年は雪が多く、2月に北陸線の親不知駅ー青海駅間で列車が雪崩に直撃され、90人が死亡した。
この年、アインシュタインが来日して相対性理論ブームが起き、アインシュタイン全集が売れた。電灯普及率は70%に達し、オールバックが流行、子供服が普及し、未成年者飲酒禁止法が公布された。労働者消費組合運動が活発となり、第3回メーデーで「聞け万国の労働者」が初めて歌われたのもこの年だった。
2月にワシントン軍縮会議が終了し、五カ国条約で英米日の主要艦保有量比率は五・五・三にすることなどが決められ、四カ国条約で太平洋諸島の現状維持を合意、九カ国条約で中国の領土保全・門戸開放・機会均等を確認するなど、軍拡に歯止めをかけ、アジアや太平洋の緊張緩和に前進したかに見えた。
イタリアでは10月、黒シャツ姿のファシスト党員4万人がローマに進軍し、国王が党の最高指導者ムッソリーニに組閣を命令、ムッソリーニが首相となり、11月に国王と議会がムッソリーニに独裁権を与えた。11月にはトルコでムスタファ・ケマルがスルタン制廃止を宣言し、オスマン帝国は滅亡した。エジプトのルクソールでツタンカーメンの墓が発掘されたのもこの年。