望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

批判の基準

 日本のプロ野球選手を評価する場合、例えばイチローを基準にすると、多くのバッターはミートがヘタだとなるだろう。王選手を基準にすると多くのバッターは長打力不足となるだろうし、落合選手を基準にすると多くのバッターは欠点が多すぎるとなるだろう。でも高校野球部の選手たちを基準にすると、プロ野球選手は「レベルが違う」凄い存在になるだろう。

 評価(批判)する場合、何を基準にするかで、良い評価にも悪い評価にもすることができる。言い換えるならば、誰かを批判し続けることは簡単にできる。評価の基準を、そのつど変えて、批判をするために都合のいい基準を持ち出してくればいいのだ。プロ野球のバッターを批判する場合に、「○○に比べて劣る」とクサし続けることができる。○○には一流のバッターの名を次々に持ってくればいいのだ。

 批判の基準をそのつど変えるというのは、批判する当人の責任をごまかすことでもある。批判する当人には“火の粉”が返って来ないようにしつつ、さも正当な批判であるかのように装う。そのためにも、何を基準にしてるの?と疑問をもたれないように、どうにでも解釈できる存在を持ち出し、その代弁者であるかのように振る舞う。

 例えば、2008年に阪神星野仙一SDがテレビ番組で、中日の5選手がWBC出場を辞退したことについて「ケガはしようがないが、調整に自信がないとか、1年しか経験がないというのは、だから経験させる。前向きな気持ちがないと。中日ファンは寂しがるのではないか。ファンのことをまず考えないと」と批判した。

 いつから星野氏が中日ファンの代弁者になったんだろう? 中日で現役生活を送り、監督もつとめ、優勝もした星野氏に中日に対する特別な思いがあることは理解できるが、阪神の監督になって、星野氏が中日ファンの気持ちを代弁できる位置にいるとは誰も思わないだろう。

 なぜ星野氏は中日批判の根拠に中日ファンを持ち出したか。星野氏個人は当時、五輪日本代表の元監督、あるいは阪神関係者としての立ち位置があったのだが、いずれでも中日批判はできなかったからだろう。すぐに反論されるし、傍から見ていても意図が見え透く。だから、中日ファンの代弁者を装った。五輪では無様な野球でファンをがっかりさせた当人が、ファンを持ち出して批判する滑稽さを演じている。

 自分のポジションを維持するために、他への批判の基準を様々に使い分け、他を批判しつつ自分の発言を正当化することは、マスコミ界などでしぶとく生き残っていくためには必要な処世術であるかもしれない。良心的にやっていては金は儲からないかもしれないからね。