望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

聞きたいことを言う

 演説とは多くの人々を前にして自分の主張や意見を話すことで、聞いている人々に自分の主張や意見が妥当であると納得させたり、説得して同調させることが目的だ。英語に疎い多くの日本人にも強い印象を与えた米オバマ元大統領のように演説には名手がいるが、日本では演説の伝統が乏しく、国会でも原稿を棒読みする政治家の姿が日常で、名手とされるような演説がうまい人は少ない。

 米オバマ元大統領も原稿を用意して、それに基づいて語っていたのだが、原稿の棒読みだとは聞き手に感じさせない「語る力」があった。日本でもマイクを前に饒舌に語る政治家は多いが、一方的な主張と見えたり、人によっては饒舌に思いつくままを語って失言騒動になったりする。思いつくままに語ると失言するのは、日本の政治家が社会規範や他者の尊厳を軽視しているからだろう。

 会合などで少数の人々を前に短く話すことはスピーチと日本では呼ばれる。ここでは参会への謝意と盛会の祝意などを述べ、自分の主張や意見などを話すときには短くする(長く話す人も珍しくない?)。日常の会話は様々な状況があり、話題は身近な事柄が多いだろうが、会話にも名手がいて、当意即妙の受け答えで場を盛り上げたり和ませたりする。

 演説とスピーチの判別が日本では曖昧で、不特定の人の前で話すことと特定の人々の前で話すことを混同する人がいる。支持者や主義主張を同じくする人々に向かって話すときには思いつくままに話しても許されるかもしれないが、不特定の人々を前に話すときには賛同を得たり同調を得ることが重視されよう。

 支持者や主義主張を同じくする人々に向かって話すときに、後に失言と指摘される発言が混じったりする。それは、その場にいない誰かを揶揄したり、あげつらったり、中傷したりする発言が聴衆にウケて、許されると油断するからだ。その発言が広く知られると、社会的に不適当だとの批判が現れ、弁解しようがない発言だったりすると謝罪に追い込まれる。

 失言となる要因の一つは、支持者などのウケ狙いに、つい「本音」を吐露するからだ。聴衆が共感しそうなことばかりを述べようとするから、喝采を得ようとして言葉がスベッて言いすぎてしまったりする。失言は当人の倫理観が希薄で社会的規範などを軽視していることを示すが、失言で支持者が離反することはないだろうから、批判も一過性と当人は受け止めて神妙な態度でやり過ごす。

 失言は、支持者など聴衆が聞きたいことを言うときに現れやすい。聴衆におもねる話者が失言しやすいとすると、米オバマ元大統領のように演説の名手は聴衆におもねることはなく、聴衆を説得するために言葉をついやす。支持者を集めて話すことでは演説の名手は生まれないだろう。支持者ではない人々を交えた不特定の人々を説得し、同調を得ようと話すことに苦心するから演説の名手が生まれる。