こんなコラムを2007年に書いていました。
福田内閣の支持率が50%台だと新聞が世論調査結果を伝えたが、支持する理由が「なんとなく」が最多の30%(朝日新聞、以下同)。次いで「首相が福田さん」(25%)、「政策の面」(22%)、「自民党中心の内閣」(20%)となる。
「なんとなく」支持するとは、どういう心理か。「政権交代は不安だけど、憲法改正だのと勇まれても、ちょっとね。ヘマはしなさそうだから、いいんじゃない?」ということか。なんとなく解る気がするけど、なんとなく解らない気もする。なんとなくというのは気分だ。支持する具体的な理由はないけれど、否定する理由もない。御祝儀代わりか。
支持する理由も支持しない理由もなければ、中立を保つのが理性的態度だろう。しかし、アンケートで回答を求められると、「どちらでもない」を選択せず、「支持する」を選ぶのは、ある種の参加意識を共有したがっているのかもしれない。自分たちの生活から遊離した、ショー的なものとしての政治。テレビ画面の中にあるだけで、非日常としか感じられない政治。参加意識が気分に流れるのも無理はないか。
気分とは、なんとなく感じているもので、いちいち言語化する作業を伴わないことが大半であり、また、多数がいる場では、なんとなく共有している感じになる。それが「空気」。
安倍首相の例もあってか、「空気を読めない」ことが欠点のようにいわれている。確かに、一途な思い込みでウチュクしい日本を目指すとかいう政治は迷惑なものであったけれど、小泉首相の場合は、ワンフレーズ・ポリティックとか揶揄されたが、信念を通したと支持された。両者の違いはどこにあったか。
小泉首相は「空気を読まず」、改革、改革と掻き回した。強い指導者だと人々は熱狂したが、改革に伴うという痛みを現実に実感し始めて人々は、チョッと待ってよという気分になりかかっていたところに、安倍首相が小泉首相の方法論を引き継いで、自分の信念を押し通すことができるんだと始めた。「空気」は変わっていた。
「日本人は基本的にコミュニケーションを嫌います。他人に何かを頼むという単純なコミュニケーションさえ恥だと考えます。その反面、誰かが場の空気を読んで、困っている自分を助けてくれないかな、と屈折した依存心を抱いています」(『反社会学講座』パオロ・マッツァリーノ著)となるが、助けは現れず、「自分から頼みもしないで『他人は助けてくれない、世間の人は冷たい』と決めつけることで、人は自立の鬼になっていくのです」(同)。
「空気を読む」ことが当然であるかのように言われるのは、自分の要求をはっきり言わずに、しかし、自分の要求をくんで周囲に何とかしてほしいという甘えなのかもしれない。別の見方をすると、同調圧力が強いことの反映でもある。「和をもって尊しとなす」か…。でも、「空気を読んで」周囲に合わせるばかりの日本人ばかりでは、国内は波風立たずに穏やかに衰退していくのだろうけど、自己主張が前提の国際社会で日本の存在感は希薄になるばかり。
自己主張が活発で当たり前になり、「空気を乱す」「空気が乱れる」ことを楽しむようになれば、読もうとする前に「空気」そのものが一定のものではなくなり、風通しが良くなるのに…。