望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

分断を生きる

 米国には政治信条、経済的格差、人種、宗教、倫理観などによる様々な分断が存在し、違いを認め合って共存する社会を謳う一方で大統領選では人々の対立が先鋭化し、激しく批判しあったり、罵りあったりする光景が繰り返される。今回の大統領選では、選挙後の混乱に備えて自衛用の武器を購入する人が増えたとも報じられ、分断が深刻だとされた。

 多様な人々が暮らす自由な社会では人々が持つ価値観も多様になり、個人の自己主張が尊重される社会では様々な主張が対立するのは不思議ではない。そうした自己主張が非妥協的な様相を帯びると、互いに攻撃しあう。自己主張の激しい対立は社会の分断を可視化したと見えるが、そうした分断は自由な社会であることの反映でもある。

 穏健な主張も過激な主張も、現体制を擁護する主張も否定する主張も、暴力を肯定する主張さえも許容されるのが自由な社会だ。暴力が行使された場合には法規制が伴うが、言葉による主張にとどまっているなら、どんな過激な主張も許容されるのが自由社会の原則だ。そうした社会で、分断の存在は個人の自由な意思表示が活発に行われていることの反映であろう。

 分断を批判するのは、社会が一つにまとまっているほうが良いとの思い込みが前提になっている。一つにまとまっている社会を賛美するのはファシズム体制だ。例えば、中国などの独裁国家では社会に存在する分断(=人々の自由な主張)は強権で抑圧され、社会から分断は排除され、分断が社会に存在しないように「演出」される。

 分断が可視化される社会が病んでいるのか、分断が可視化されずに隠蔽される社会が病んでいるのか。分断の存在を問題視しすぎると、自由な社会や民主主義社会を軽視し、権威主義体制や独裁体制をうっかり賛美しかねないぞ。社会の自由度と分断の可視化程度が比例するとするなら、分断の可視化を深刻がる必要はない。

 バイデン前副大統領は「勝利宣言演説」で、分断ではなく結束を目指す大統領になると語った。トランプ氏支持者に「暴言をやめて冷静になり、もう一度向き合い、双方の主張に耳を傾けるべきだ」「互いを敵とみなすのはやめなければいけない。私たちは敵ではない。私たちは米国人だ」と呼びかけた。もっともな言葉だが、こんな言葉で状況が変わるはずはなく、人々はそれぞれの主張を続け、分断は可視化され続ける。米国が自由な社会だからだ。

 和をもって尊しとする社会なら、社会の分断は憂うべき状況だろう。だが、人々が同調圧力を感じて鬱陶しい毎日を送っている和を強要される社会よりも、人々が自己主張をし合っている社会のほうが風通しは良さそうだ。人々が自由に主張することで権利を獲得してきた歴史のある社会では、人々の多様な主張の衝突は主権者意識の反映でもあり、人々は分断を生きる。