望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

民主主義は善か

 民主主義は善きことであると一般には見なされているようだ。軍部や特定階層などによる独裁体制よりも、民主主義のほうが多数の人々にとって望ましい体制であることは確かだろうが、民主主義という制度と善という価値観を結びつけると、民主主義が理想化されすぎ、民主主義の限界が見えなくなることもある。

 民主主義の限界を理解するには、民主主義が全ての問題を解決する至高の制度ではなく、一つの政治システムでしかないと認識することがカギとなる。だが民主主義が善であり至高の制度であると見なすと、民主主義が実現すれば理想の社会が実現すると思い込んだりする。

 独裁統治下においては民主主義への移行が人々の目標になるだろうが、民主主義に移行した後の政治が、利害対立が先鋭化したりして順調にいかない例は珍しくはない。民主主義に移行した後に、人々の中にある利害対立や分断が政治に強く反映されるのは民主主義が機能していることだが、議会での対立などを見せつけられた人々は、民主主義が損なわれていると早合点したりする。

 民主主義は、人々の自由選挙により形成された議会で国家運営の方向を決定するシステムと定義すると、そこには善悪の価値判断は不要である。せいぜいが、主権者である人民の意向を国政に反映させる最も世界的に採用されているシステムであり、推奨されるべきシステムだと評価するぐらいか。

 民主主義に善だと価値観づけを行うことが民主主義に過大な役割を負わせ、理想の政治に導くシステムだと誤解させる。民主主義が機能していると議会に利害対立や分断などが持ち込まれるという現実は、民主主義を善だと思い込む人々にとっては、民主主義が機能していないから議会が混乱しているなどとの誤解や批判の根拠になったりする。

 民主主義というシステムの限界とは、第一に、議会が機能するかどうかを保証するものではなく、第二に、正しい政治が行われることを保証するものではなく、第三に、利害対立や分断があるからこそ多数決で決めざるを得ないことであり、第四に、独裁統治を招くこともありうることだ。

 皮肉な見方をするなら、「与えられた」民主主義だから多くの日本人は善きものと歓迎したのか。民主主義というシステムを日本人は使いこなすようになったが、達成感めいたものが野党側の体制批判派の人々に欠如しているので、民主主義を善だと位置づけ、体制批判の正当化のために、民主主義が損なわれていると言うのかもしれない。