望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり

自由な社会と分断

 宗教的な摩擦や文化的な摩擦などが暴力やイジメとして現れたり、政治的な対立がデモの応酬になったりすることは珍しいことではない。政治的な対立が鋭くなるほど、選挙結果を敗北した側は素直に受け入れられず、といって選挙を否定することもできず、選挙結果に現れた社会の分断を嘆いてみせたりする。

 そうした摩擦や対立が社会の分断を示していることは確かだが、分断に気を取られすぎると、分断を解消することが諸問題の解決策であるかのように勘違いする。和を尊重することを善しとする思い込みがあったりしたなら、分断があることを憂慮し、相互の不寛容さを諸悪の根源としたりする。だが、相互の違いや対立を認めた上での寛容さを求めるのではなく、融合することによる寛容さを求めたりすると、現実的な処方とはなりにくい。

 分断を、あってはならないものとして考えると、現実離れした理想論を積み重ねるしかなくなる。多様な人間で構成される社会に分断が存在するのは自然であり当然だと考えるのなら、摩擦や対立が激しくなっても、それが社会を分断させると過剰に悲観視する必要はなくなろう。

 分断がない社会(=分断が表面化しない社会)とは、例えば北朝鮮や中国のような、権力による強権支配が徹底し、公安警察などにより人々の監視が日常的に行われ、体制に批判的な人々は拘束されたり隔離されたりし、「反逆者」とされたなら容赦なく処刑されるような社会だろう。

 分断がない社会(=分断が表面化しない社会)では、個人が自由に発言することは許されず、その社会で政治的に正しいとされることを言わなければならないだろう。個人の発言を統制するために個人の思考を統制することを権力は目指すだろうが、思考は外部から見えないので、日常の全ての言動により個人の思考を推測することになる。権力による人々の監視が強化されると、分断が見えにくい社会になる。

 個人の自由と権利を尊重する社会では、政治的主張を含めて個人は自由に発言する。それで、極端な主張を含めて多様な言説がなされ、様々な利害対立が表面化し、それぞれの「正しさ」を振りかざして争うことにもなり、分断が深刻に見えたりする。自由に活発に個人が意思を表明できる社会であるほど、分裂傾向が強くなろう。社会の分断現象は、個人の自由さをはかる指標にもなる。

 ただし、分断は政治(家)に利用され、より激しい対立へと促されることもある。相互の違いや対立を認めた上での対話を求めることよりも、相互に不寛容になって相手を打ち負かすことに励むなら、分断はやがて亀裂となることもあろう。異なる意見を持つ人々、利害が反する人々に対して、どれだけ「冷静さ」を人々が保つことができるのかが、分裂しない社会の尺度になる。