望潮亭通信

無常なる世界を見るは楽しかり





愛を求める国家

 「寛容と民主主義の原理が愛の原理と、多くの場合に矛盾する」と加藤周一氏は書いた(『E.M.フォースターとヒューマニズム』)。続けて「両方を救おうとすれば、一方を個人的面にかぎり、他方を社会的面にかぎって、一種の二元論をとるほかはないだろう」とする。

 この文はフォースターの思考を、「政治とか文明とか公的な問題に関して『愛』の原理をもち出すのは、見当ちがいだということを強調し、その代わりに『寛容』を説いている」と説明した後に出てくる。フォースターは世界を、公的(社会的)な面と、私的(個人的)な面とに、はっきり別けて考えていた。

 フォースターは言う。「愛は私的な生活においては大きな力である。すべてのものの中でもっとも偉大でさえあるだろう。しかし公的な事柄については役に立たない。(これは)世俗的な立場から同胞愛を強調したフランス革命が、繰り返し試みてはっきりしたことである」。公的な事柄を愛さなければならないという思想は「不合理で、非現実的で、危険である。そういう思想はわれわれを漠然とした感傷主義の危険に導く」とする。

 さらにフォースターは言う。「実際にわれわれが愛することができるのは、個人的に知っている相手だけである。ところが余り多勢の人間を個人的に知ることはできない。公的な事柄、たとえば文明の再建というようなことには、愛ほど劇的でも感動的でもない何ものか、すなわち寛容が必要である」

 人々に「愛する」ことを要求する国家が過去にあり、現在もある。なぜ人々に「愛される」ことを求める国家が出てくるのだろうか。私的な領域での愛と、公的な領域での愛が同類のものだとするなら、「愛される」ことを(時には強権的に)人々に求める国家とは、なびかない相手に力づくで迫る個人を連想させ、傍からは惨めな姿にも映る。

 私的な領域での愛と、公的な領域での愛が異なるものだとすれば、どのように異なるのかを国家は明らかにすべきだろう。しかし、その種の国家が人々に求める愛が、対象などを限定した愛ではなく、全面的な国家への忠誠と同種の感情なのだとすれば、違いを曖昧なままにし、私的な領域での愛と混同させ、愛に伴う使命感を人々に持たせたほうが国家には都合がいいだろう。

 人々に「愛される」ことを求めない国家は、おそらく民主主義国であろう。フォースターは、政治的意見の多様性を許し、批評を許すからと民主主義を支持する。彼は「民主主義がはじまるのは、個人の重要さと、あらゆる型の人間が文明をつくるのに必要だということを認めることからである」とし、議会の価値を「批評し、言論し、その言論の広く報道されることを許すから」とする。

 人々に「愛される」ことを求める国家は、人々に多様性や批評を許さなくなった国家だろう。多様性が尊重される民主主義において、人々に求められるのは愛ではなく、多様性を許す寛容だとフォースターは言う。人々に「国を愛せ」と求める政治家がどれくらいいるか……それが、その国の民主主義の実態を示すバロメーターなのかもしれない。